駈けて来る若い女の姿が眼に映つた。日本の女である。披女は、われわれの方へ一瞥を投げ、そのまゝとある建物のなかへ消えて行つた。
 堀内氏は、
「おい、おい、ねえさん」と、呼んだ。
 女は、襟をかき合せるやうにして、再び門口に現はれた。
「なにか、御馳走はできないかい?」
「わしども、たつたいま来たばかりぢやけん……」
「来たばかりだつていゝぢやないか」
「なんにも支度がでけとらんですたい」
「ほう、支度がいるか。そいぢや、また……」
「どうぞ……」
 われわれは、一軒の空家とおぼしい家の門を潜つた。なかなか立派な家である。案内の支那人はもうゐない。堀内氏は、奥まつた建物の扉をこつこつと叩いた。
 意外にも、その扉が中から開いて、五十がらみの割に品のいゝ男が顔を突き出した。堀内氏が言葉をかけると、その男は、大きくうなづきながら、屋敷の中の一棟を指さした。中庭を横ぎらうとすると、その庭の真ん中に大きな卓子があり、四五人の男が暗闇のなかで食事をしてゐるところである。
 彼等は慌てゝ箸を投げ出した。一人の老人が私に椅子を薦める。他の若者は、急いで茶碗を洗ひ茶を汲んで出した。眼が馴れると、あたりの建物の様子がはつきりして来た。
「これはどういふ家ですか?」
 私の問ひに堀内氏は、
「穀物問屋です。この町では大尽ですよ」
「家族はみんなゐるんでせうか?」
「男だけは残つてゐるらしいですな。さあ、晩飯の支度にかゝりませう」
 隊員の支那人、賈陽山《ヂヤヤンサン》君が肉と野菜の買出しにやられた。もう一人の王振遠《ワンチエンユアヌ》君は、用がないと見えて、私のまはりをうろうろしてゐる。
 穀物問屋でも米がないとわかつたので、例の饅頭の皮みたいなものをこしらへることになつた。堀内氏が家の主人に紙幣を一枚握らせると忽ちサーヴイス振りが違つて来た。竈の火は赤々と燃え上り、油を煎る音が空腹を刺戟した。
 間もなく、賈君は豚肉と白菜と葱をしこたま仕入れて来た。王君が庖丁でそれを切る。味噌はあるが砂糖がないといふので、坂本氏がドロツプをひとつかみ鍋の中へぶちあけた。
 その夜、私は堀内、坂本の両氏と枕を並べて寝た。この一行は夜具の用意をして来てゐる。おかげで、私も寒い思ひをせずにすんだ。
「あなた方が連れてをられる支那人は、どういふ素性の人ですか?」
 私は、物好きに、かう訊ねてみた。
 堀内氏は、笑ひながら、
「あの年取つた方の王といふのは、以前張学良の部下で、陸軍大尉です。張の失脚後、職に離れてゐたのを、わしが拾ひ上げたのです。もう一人の若い方、賈といふのは、あれは、二十九軍の兵隊だつたのを、途中で逃げ出して、わしのところへ頼つて来たのです。あれの兄といふのをわしが北京で世話してゐたものだから……」
「へえ、すると、両方とも玄人ですね」
「なかなか役に立ちますよ。賈なんか、今でも敵の歩哨線を公然と通り抜けられるんですからね」
「なるほど、暗号も知つてるでせうからね」
「いま、第一線でわしの部下が働いてますがみんなよくやつてくれとるですよ。早う行つてやらにや、わしも心配でなあ」
「あなたの隊は、日本人はあなた方二人きりですか」
「いや、ほかに三四名ゐます。班長はやはり日本人でないといかんです」
 堀内氏は、そこで、図嚢から眼薬を出して眼にさした。迫撃砲の破片でやられた傷がまだ完全になほつてゐないのださうである。

     仮橋を渡る

 朝早く眼がさめた。
 私は中庭に出て、火事場のやうな光景を見た。家財道具を悉く運んだ後の、ガラクタと塵芥の堆積がそれである。
 古手紙が散乱してゐる。帳簿や、古い小説本、子供の絵本、法律書、殊に、裁判所の判例の写しが沢山ある。この家の息子の一人がその方面の学校へでも行つてゐるのであらう。裏庭へ出てみると、バスケツトボールの設備がしてある。純支那風のこの建物にそんな生活がどうして想像できよう。
 王君が金盥に湯を汲んで持つて来てくれる。なるほど大尉の軍服を着せたらさぞ似合ふだらうと思はれる立派な体格である。大陸には珍しい口髭も生やしてゐる。
 昨夜の食事の残りで朝飯をすます。
 荷物を運ぶための苦力が五六人召集される。
 朝霧のなかを、一行は城壁に沿うて、沙河の河畔へ!
 鉄橋のなかほどに機関車が一台立往生をしてゐる。河幅は千米もあらうか。洲の多い川である。鉄橋と平行に仮橋が架つてゐる。
 これが堀内氏の説明によると、二千人の苦力を集めて二昼夜のうちに完成した応急工事である。砲車も通ればトラツクも通る。われわれはその間を縫ふやうにして、やつと対岸へ着いた。
 乗馬将校の叫人が、演習のやうに号令をかけてゐた。堀内氏は、この橋に余程の執着があるらしく、
「まあ見て下さい。これが素人の架けた橋ですぜ。わしはひと晩、水の中に漬かつ
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