の中で答へる。
 が、もう日が暮れかけて来た。
 連れて行かれたのは、清華大学教授、日本文学に精しいといふ銭稲孫氏の家である。
 この種の会見は、私の方では全く北京へ来るまで勘定に入れてをらず、従つて、質問の準備もない。第一、私は、この事変下の感情をなんと云ひ現すべきかを知らないのである。月並に、「誠に困つたことになりました」とでも云はねばならぬとすると、それは、一層困つたことである。
「初めまして……」
 と、私は日本流に挨拶した。
 銭氏の温厚君子の如き顔は、心もち緊張したやうに見えた。
「何時こちらへおいでになりましたか?」
「は、昨日……」
 と、外国人らしく私は答へた。が、何しに来たと訊かれない先に、私は、率直に、旅行の目的を述べ、北京で先生にお目にかゝれたことは、この旅行の一大収獲だとお世辞を云つた。
 やはり、なんとなく、話がしにくいのであらう。銭氏は、いく度も眼をつぶつて考へ込んだ。
「今度の事変は国民と国民との争ひではないと、両国の政府は声明してゐますが、私もそれを信じた上で今度の旅行を思ひたちました」と、私が云ふ。
「日本も支那も、この機会に、なすべきことはたゞ二つだと思ひます。即ち、忘れること、反省すること、たゞこれだけです」
「先生の御意見は、甚だ東洋的で結構だと思ひます。私は、御国の知識階級が殆ど北京を去つてしまつたといふ話を聞いて、非常に悲しく思ひました。この状態は永く続くでせうか?」
「さあ、わたくしにはわかりません」
「先生はイタリイにもおいでになつたさうですね」
「父が公使をしてをりましたから……」
「ずつと北京においでになるおつもりですか」
「なんにもすることがなければ、田舎へ引つ込みます。私の眼の前は、いま、真つ暗です」
 相手を識らなければ、何を話してもまづいやうな気がして、私は遂に黙つた。銭氏の今までの仕事について、皆目知識がないことを私は悔んだ。なんでもダンテの「神曲」を訳してゐるといふことは知つてゐたが、話を六百年前に戻す法はないのである。
 O氏が、四方山の話をしてくれる。
 その間、私はぼんやり、部屋の隅々を見廻し、支那文人の住居らしい、それでゐて、どことなく欧羅巴に通ずる何ものかをひそませた生活様式に興味を覚えた。
 不躾な訪問を謝して外に出ると、細い露地は暗く霞んで、街の子らが車の周囲を取巻いてゐる。
 誰がなんと云はうと、この風雲の下で私と銭氏との立場は明かに違つてゐるのである。万が一、彼の眼に、戦捷国民の思ひあがつたひとつの顔が映つたとしたら、私は穴にでもはひりたい。
 代表的な北京料理を食べたいといふと、O氏は、それなら、食通のW君を呼んで献立の註文をしてもらはうと云ふ。それほどのこともあるまいと思つたが、W君といふのは日本に留学してゐたお医者さんで、気骨のあるさつぱりした人物だといふから、話ができればそれも面白からう。
 料理屋の名は忘れた。所謂「うまいもの屋」といふに応はしい小さな構への、体裁お構ひなしといふ店である。屏風で仕切つた奥のテーブルに着く。
 W君はやゝ遅れてはひつて来る。
 ざつくばらんな調子で、いきなり現在の心境を語る。
「しかし、いま北京にゐるといふだけで、僕などは、南からは睨まれてゐるでせう。うつかり上海へでも行かうもんなら、首がなくなるさ。北京も変るでせうね。どう変るか。北京人は北京が好きなんだから、そのつもりで、あんまり滅茶なことはやらないでほしい。僕は政治なんかに興味はない。だから、まだいゝ、かうして平気でゐられるんです。こゝまでは民衆も黙つてついて来るだらう。あとを、日本がどうするかだ。どういふ態度で民衆にのぞむかです。被征服者扱ひはよくない。忍ぶといふことにも限度があるからね。この間、保定が陥落した時、ほら、こゝで旗行列をやつたでせう。誰が考へ出すかね、あゝいふことは? 上の方ぢやない、それはたしかだ。行列に加はつたのは、小学校の生徒とあとは……。まあ、これや大した問題ぢやないがね。僕は、看板と標札を外して天津へ行つてたよ、その日は……。……………れないからね、かういふことは。日本のためにも考へるべきことですよ」
 料理が運ばれた。豆腐と茸の清汁、鰻のシチユウなど珍味である。
「日本には、僕の尊敬する先生もをられるし、世話になつた人達は、みんな僕の心のなかに永久に生きてゐる。日本にゐる日本人は、懐かしい。だが、北京はどうなるのかね。僕が住めなくなるやうな北京に誰がするのかと思ふと、淋しい気がするね」
 彼は急に聴き耳をたてる。そして、私たちの方へ、眼で用心しろといふ合図をする。何者かが秘かに私たちを狙つてゐるとでも云ひたい表情である。私は、正直なところ、ギヨツとした。「藍衣社」といふ言葉が咄嗟に頭に浮んだ。
「あの話声は日本人ぢやない
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