事変直後に、日本の新聞が姉のことを書きたてたもんだから、先生、南京に対して立場がわるくなつたらしくてね。それも、姉とわたしとで満洲へ行つたことをなにか日本のためのやうに書いたのが致命的だつたんです。困つたことをするもんですよ、新聞は……。親日家はみんな日本の新聞に親日家と書かれることをひどくおそれてゐるわけがわかるでせう」
手紙を書き終つた堀内氏は、
「ぢや、これをひとつ郵便で出して下さい。家内のゐどころがはつきりわかりませんから、宛名をかうしておきました。この家は日本でもわしの根城です」
私は、今迄見た限りは戦場のどういふ部分と云ひ得るかを考へた。戦線の後方と云つても、弾丸の音が聞えないくらゐのところでは、その言葉の感じとは隔りがあるやうに思はれた。
さつき○○を出るとき、ふと耳にはさんだその日の前線の情報にも、娘子関に向つた鯉登部隊が、地形の関係であらうか、敵の包囲を受けてなかなかの激戦中だとのことである。鯉登は事変当初からニユース面に登場した私の同期生の一人なのである。さういふ緊迫した情況も、此処にゐては、想像が眼に浮ばず、内地で号外の文句を読むのと大差はない。
堀内氏から、「あなたは流石に軍人であつただけ」などと云はれ、さうか知らと自分で不思議に思ふくらゐ、危険は常に遠くにあるやうな気がしてゐたのを、いよいよ明日は後退だときまると、また一層ほつとしたやうな、それをまた自分に咎めるやうな、複雑きはまる気持になつた。
これでみると、敵の砲火を浴びるといふことが、なるほど人間を得意にする理由がわかるやうに思ふ。
私はぐつすり眠つた。
翌朝、堀内氏の計ひで自動車が用意されてゐた。
志士諸君、あなたがたが日本を愛し、同時に支那の民衆を愛するといふ言葉を私は信じようと思ふ。事変でも終つて、諸君と再会の機を得たら、その日本について、また支那民衆について、お互に率直に語り合ひたいものである。
○○部隊○○から、○○飛行場へ送られる。同乗の一将校は、その軍服が血の臭ひのするほど殺気立つてゐた。恐らく、第一線の物音を耳に残し、これからまた、その物音のなかへ飛び込んで行くのであらう。相手の話しかけるまゝに、私が答へる声は、およそわれながら調子の合はないものであつた。
この時、私は、ふと「文弱」といふ言葉を思ひだし、この言葉が今日軍人の間でのみ使はれてゐるらしい
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