まだ日のあるうちにといふので、井河氏の巡視時刻を利用し、市中をあちこち見せて貰ふことができた。
 殆ど影をひそめてゐた住民の三分の一は自分たちの古巣に戻つて来てゐるといふ状態で、街々には日の丸の旗を手にした住民の三々伍々が、道ばたに佇み、門口に並んでわれわれの通るのを目礼を以て迎へてゐる――と、私には信じられた。なかには、旗を両手で捧げるやうに頭の上へ差出し、叩頭礼拝する姿も見うけられた。或は、そのなかで、盆にのせた巻煙草を恭々しくわれわれの前に差出さうとするものもあつた。懇ろな饗応であらうが、敢てこれを受けるものがあるであらうか? 婦人は老婆を除いては、まだ絶えて街上に姿を見せないと云つていゝ。
 一寺院の塔に登つてみた。案内の少年僧はわれわれの手を曳かんばかりにして、薄暗い埃にまみれた階段を先に立つて駈け上つた。塔の屋根は砲弾に見舞はれ、半壊のまゝ残つてゐたが、多分、敵の監視兵でもゐたのであらう。
 こゝからは、保定の城内が指呼のうちに見渡せる。意外だつたのは、アメリカとフランスの国旗がそれぞれ、いくぶん風変りな建物の頂に翻つてゐることであつた。一方は教会堂、一万は修道院で病院を兼ねたものだとのことであつた。フランスの尼さんがいくたりとか、大胆にも砲火の下に蹲り、日本軍の進入を待つてゐたのだと聞けば、私の好奇心は動かざるを得ぬ。しかし、事情あつて、私はその訪問を思ひ止つた。
 それから、商店街と覚しい通りへ出た。大きな店は大抵まだ閉つてゐる。閉つてゐる門には○○隊の貼札がしてある。曰く「居住者ナキ人家ニ入ルモノハ厳罰ニ処ス」。軍律の厳しさを思はせ、私は、ひそかに感謝の念にうたれた。
 もう、北門の聳えてゐる前に来た。扉は重く鎖されてゐる。城壁の上を歩いてみる。幅は三間もあらうか。地下室を設けた散兵壕が、蜿蜒と続いてゐる。機関銃座がある。支那兵が弁当を食ひ散らした跡が歴然と残つてゐる。缶詰の空缶に蠅がたかり、砲弾の破片が脱ぎ棄てた靴と一緒にころがつてゐる。城壁の外はとみると、これはまた半永久陣地の帯が幾重にも築かれ、所謂戦車壕と呼ばれる深い堀が要所々々に掘つてある。土の色はまだ生々しく、夕暮の靄が底をつゝんでゐる。
 街には灯がとぼらぬのに、空を仰ぐと月が白く浮び出てゐるのに気がつく。今夜は満月であつた。
 城壁の上には、雑草と灌木が生ひ茂つてゐる。ナツメに似
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