る。土間はべとべとしてゐる。背負つてゐる重い包を下におろす。外を通る靴音に耳を澄ます。
 日本軍は決して良民に危害を加へるやうなことはないと、たつた今、助役さんに云ひ聞かされたばかりである。しかし、それを信じるには骨が折れる。試しに、女房と子供は山の中へ隠しておいて、自分たち、男だけでやつて来たのである。隣りでも、ごそごそ庭を片づける音がする。
 ついこの間まで「打倒日本」を叫んで廻つてゐた保安隊の一人が、もう、腕に日の丸の印をつけて、「みんな役場に集れ。仕事をやるぞ」とふれ歩いてゐる。表へ出る時は、旗を持つて出なければならぬ。敗残兵や便衣隊と間違へられては大変だ。一人では心細いからお隣を誘つて行かう。
 めいめいは、さうして、その日から、宣撫斑の指図に従つて、応分の賃銀を稼ぐことができるのである。
 北支の黎明は、この不安と恐怖の黒色を次第に安堵と希望の明色に塗りかへつゝあることは事実である。
 たゞ、私は、これら支那民衆の表情にくらべて、同じ戦ひを戦ひながら、未だひと度も敵軍の侵入に遇はず、砲弾のうなりを聞かない日本内地の同胞の、世にも恵まれた運命を想ひ、拝跪して天の恩を謝したい気
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