るやうな種類」の文学でなければならないと断言して憚らない人達が、「正しい文学の道」にはひらうとする青年を誤らしめる事である。
少し文学史を繙いた人なら、さういふ連中が何時の時代にもあつて、二十年後の世間は、もう相手にもしなくなるのであるが、結局新しい文学とは、主張だけから生れるのではなく、その主張によつて、疲弊した旧文学に「新しい生気」を与へることから生れるものであることがわかる筈だ。
従つて、新傾向の主張を反駁する連中は、薬をいやがる病人のやうなものであり、或は、薬で腹がふくれるかと息巻くわからず屋である。
さうかと思ふと、また、「かういふものがあつていい」と或る人が云へば、「そんなものよりこつちの方が大事だ」と答へる。どつちが大事かは別の問題で、無くつていいものでない限り、まして、在つてはならないものでない限り、どんなものでも在るに越したことはない――少くとも文学の中には。人の顔さへ見れば自分の持つてゐるものを取られるやうに思ふ癖は、文学者として、少々、慎しむべき癖である。
そこで、どつちが大事かといふ問題であるが、それは、その人に取つて、そつちが大事だとも云へるまでである
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