訳者より著者へ
――「葡萄畑の葡萄作り」――序
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尨《むく》犬

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Come'dies〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 何しろ、僕は今まで、劇作家としてのあなたにより多くの親しみをもち、小説家乃至随筆家としてのあなたを殆んど識らなかつた。勿論、あなたの出世作「Poil de Carotte」は、脚本と併せて小説の方も読んだが、それは例の色んな本を渉猟すると云ふ楽しみ、名著を翻くと云ふこと、そのことが既に心を酔はせる、さう云ふ時代の、不真面目とは思はないが可なり無批判な、要するに興に乗じて読む、まあさう云ふ読み方をしたに過ぎない。これに反して、あなたの脚本は、少くとも「〔Come'dies〕」に収められてある四篇は、僕に取つて、ミュッセの戯曲と共に、束の間も座右を離さない、云はゞ宝典とも称すべきものだ。きまぐれな紳士淑女の一愛読書の程度を遥かに越えてゐることは云ふまでもない。
 さう云ふわけで、今度、友人鈴木君から同君らの計画になる「仏蘭西文学の叢書」の刊行に当つて、僕にも小説を一二冊訳して見ないかと云ふ勧めがあつた時、実は、潜上の沙汰と知りつゝ、ルナアルのものならばと云つて、それも始めて読む「葡萄畑の葡萄作り」を、アナトオル・フランスの、これも僕の選択で「鳥料理レエヌ・ベドオク」と共に引き受けてしまつたのだ。
 あなたの小説のうちで、一篇だけ代表的なものを選び出すことは六ヶ敷いやうに思ふ。然し、あなたの面目が最も躍如たるばかりでなく、僕自身が一番惹きつけられ、その上、比較的――誠に卑怯な話だが――訳し易いと思つたのは、此の「葡萄作り」だつた。尤も此の最後の予想は、翻訳の半ばから見事に覆された。
 戯曲以外のあなたの作品を読みながら感じたことは、あなたの戯曲を読み、それを舞台の上で見た、その時に感じ、それ以来、感じ続けてゐる感じを、一層濃厚に、一層広く、一層鮮明に、一層深くしたものと云ふ一言に尽きる。
 そもそもあなたは、恐ろしいほど正直にものを言ふ人だ。ぶつきら棒だが、横柄でなく、皮肉のやうで、その実、刺はない。馬鹿にされてゐるやうで、親しみはもてるし、嗤はれてゐながら腹は立たない。憫れみを受けても、自尊心は傷かず、怒られても、笑ひたくなる。あなたは、人にものを云ひかけながら、自分自身にものを云つてゐる。人を嗤ひながら自分自身を嗤つてゐる。人を憫みながら、自分自身を憫んでゐるのだ。
 あなたは、左の胸の、何番目と何番目の肋骨の間に、心臓があるとは云はない。こゝに耳をあてろ、この音が心臓だと云ふ。心臓を掴み出して、これが情熱だと云ふ。
 人生の二重相を看破した最初の詩人はあなただとは云はない。あなたは、現実の世界と夢の世界とを、更に、真の世界と偽りの世界とに区別した。そして、その二つの世界が、人間の魂の二つの姿であることを指摘した。心の底に潜む心を捉へ、感覚の裏に眠る感覚を呼び覚した。聡明なペシミストとしての人生観がそこから生れた。
 或る批評家が云つたやうに、あなたは始め辛辣なユモリストとして人生を戯画化した。しかし、あなたの本性が更にあなたの仏蘭西人としての特質が、そしてあなたの生活の体験が、あなたの人生観を禁慾主義的な微笑で包むやうになつた。それと同時に、あなたの嫌ひな「人間」が、あなたのうちの「人間」と共に、救ひ難きまでも憐むべきものであることを知つた。その憐みは、寛大な愛の萌しにはならなかつたが、少くともあなたを単なる憎しみの心から救つたに違ひない。「自分も人間でありながら、その人間がわたしを人間嫌ひにする」さう云ふあなたの言葉に偽りのあらう筈はない。しかし、そこには、「人間が嫌ひ」であることを誇る気持は毛頭含まれてゐない。寧ろ「人間が嫌ひ」であることを悲しむ、その甘苦い涙こそ、あなたの有つてゐる詩なのだ。「裏面の詩」なのだ。その詩こそ、あなたの芸術を浪漫的ユモリスムから引き離して、切々藹々たる人間味の中に浸し、古典的自然主義芸術の伝統に結びつけたのだ。
「わたしは自然によらなければ書かない。わたしは生きた尨《むく》犬の背中でペンを拭ふ」とあなたは言つた。あなたはあなたの想像力に信頼しない。此の点で立派に浪漫派と絶縁してゐる。あなたは一々の事物について、その特質を捉へなければ満足しない。此の点で所謂古典主義の拘束を受けてゐない。あなたは言はなければならないことを言ふために、言ひたいことでも言はないことがある。まして言つても言はなくてもいゝやうなことは決して言はない。此の点で所謂写実
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