である。
しかも、その発展を阻害する大きな理由は、経済的基礎の薄弱といふやうなことではなく、実は新劇を形づくつてゐる人々の、演劇といふものに対する共通観念の欠如なのである。いひ換へれば、演劇に関する基礎的教養をもたずに、いきなり、技術家としてすぐ間に合ふ人間に仕立てられるからである。つまり速成の弊が現れて来たのである。
かゝる人物の集合からは、創造といふものは生れないし、協力による発展といふことも望めないのである。
映画の方面をみても、同様のことがいへると思ふ。何処にでも、少数の人材がゐることはゐるであらう。しかし、それらの人々をして、精いつぱいの、愉快に仕事をさせないものが、必ずある。それは、端的にいへば、相手とする人間から頭脳の協力を得ることができぬといふことである。「こんなことがわからないのか」と始終口癖のやうにいつてゐなければならぬとすれば、いつたいどうしたらいゝのか?
かつて私は、この欠陥を補ふ唯一の、そして最善の方法は、日本の現代文化といふ見地から、国家が先づ、演劇映画研究所とでもいふべきものを作るべきであるといふ意見を述べた。これは、今日の劇場経営者も、映画企業家
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