味で変つて来たのだと思ひました。西洋風になつて来たかといへば、さうでもない。さればと云つて、必ずしも僕の理想に近くなつて来たといふのでもない。
不景気のせいでもありませうが、それから、近頃の芝居が下落したせいもありませうが、日本の見物は、どうも面白くなささうな顔をしてゐますね。さういふ顔が、あの窮屈な廊下を、無意味に行つたり来たりしてゐる。処々に、三々五々、「芝居も毎日ぢや飽きるね」といふやうな笑ひ方で、相手の顔よりも擦れ違ふ抜け襟の中に眼を落しながら、無性に敷島を吹かしてゐる中年以下の紳士連を見ることは見ます。
それよりも、座席と便所と売店との間を、廿日鼠の如く、無表情にキリキリ舞ひをして歩く美装の淑女は、一体、あれや、なんですか。
またフランスの芝居に戻りますが、「芝居は笑ひに行くところ」なるモツトオがあるにしても、パリの見物は概して、開幕中のみならず、幕間をさへ陽気にする術を心得てゐるらしく思はれます。
「謹厳第一」は必ずしも幕間を愉快にする信条ではありますまい。
幕が開いてゐるうちは静かでも、幕が下りた瞬間、破れるやうな拍手に交つて、見物席の隅々に起るあの「うれしキツス」の音を聞いたものは、日本のお役人さんならいざ知らず、やがて幕間の、のびやかな、くつろいだ、どうかすると、ちつとたしなめてやりたいほどの「たんのう気分」を、さうむきになつて憤慨はしないでせう。
僕だつて、その方は我慢ができる。我慢できるどころに非ず、どうせ、頭をひねるやうな芝居でさへなけれや、幕間は「見物が無邪気に演ずる即興劇」であつてほしい。自分でも一役ぐらゐもつていゝ。
「見物が無邪気に演ずる即興劇」であるからには、幕間の面白さは、戯曲に関係しない。役者たる見物の腕次第、頭次第、どうかすると腹次第といふことになるかもわからない。
とは云ふものゝ、劇場の舞台と廊下とは、その実甚だ交渉が密接であります。
早い話が、舞台で悲劇をやれば、廊下の空気も悲劇味を帯び、喜劇をやれば、廊下の空気も喜劇味を帯びる。表現派の戯曲を上演する。見物は表現派の表情で壁の額や天井のランプを見つめる。立廻り劇となると、食堂での箸の運びが、どうも穏かでなくなる。ラヴ・シインの後では、令嬢の挨拶までが、なかなかしめやかである。
僕は、かういふ点で、芸術的感銘の深い舞台の印象が、そのまゝ幕間の雰囲気
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