、たゞ、お互ひに顔を見合はせたゞけで、「なるほど」と首肯き合へるやうな連れが一人ほしい。

 パリの劇場で、幕間の数分間を、さほど不愉快に思はずに過せた劇場と云へば、まあ、コメデイー・デ・シヤン・ゼリゼエの、それも木曜のマチネでせうか。
 見物の数は三四十人。座席はあれで八百もありましたらうか。ピトエフ夫妻が、死物狂ひの舞台を見せてゐるやうな時でした。
 それは、今日の築地小劇場と、やゝ似た「客種」であつたせいもあり、それでゐて、あらゆるジエネラシヨンを網羅し、あらゆる性が略ぼ平等の数を占めてゐたからでせう。
 幕間の廊下は、恐ろしきまでの沈黙を守つてゐました。

 ヴイユウ・コロンビエの幕間も、また、特筆すべきものゝ一つでせう。
 こつちは、何しろ、もうパリ名物の一つであるだけに、外国から、わざわざ見物に来た、さういふ連中が、あの狭い廊下で、いろんな色の眼をきよろつかせてゐる。
 初日などは、場所が少いお蔭で、パリの劇評界を一眼で見渡すことができる。
 こゝで、一番困るのは、それと相場のきまつてゐるアメリカの「文学老女」とそれを取り巻くスノブの群、これなら、まだしも、神経衰弱の五百羅漢が、薄暗い廊下の隅に、「此の戯曲は抑も何派なりや」を考へ悩んでゐるわが築地小劇場の幕間こそ、世にも尊きものでなければなりません。

 国立劇場コメデイー・フランセエズの幕間は、それぞれの頭の中を割つて見ない以上、これこそ、理想的な幕間でせう。なぜなら、そこには、けばけばしさと、物欲しさと、焦立たしさとがないからです。
 少しばかり、「予期の満足」があり過ぎると云へば云へませう。「感激」よりも「誇らかな同感」がある。しかし、幕間の気分には、その為めに「落ちつき」と「温かみ」が生じる。一種の「気品」さへもついて来る。
 僕は帝劇といふものに、こゝ六七年御無沙汰をしてゐます。従つて、最近の感想は述べられないわけですが、あそこの「客種」は一寸変つてゐるさうですね。話に聴けば、どうも、あまり感心しないものらしい。そんなら、歌舞伎とか市村とかはどうか。僕は、まだ前者には失礼してゐるが、此の間、市村座に行つて、六七年前と比べて、余程、幕間の――つまり劇場の雰囲気といふものが、変つて来たことを感じました。劇場の建築や、装飾や、見物の服装や、化粧や、そんなことよりも、見物の一人一人が、それぞれ、或る意
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