くもない。心配する親がゐるわけである。
 ミュツセとアナトオル・フランスとを、日本語で読めるやうに訳すのはむづかしい。
 モオパッサンは、なんでもないやうで、やつてみると、どうにもならない。日本語にすると、味のつけようがないのである。物にもよるが、下手をすると、俗つぽくなつて読めないものになりさうだ。ああいふことを書いてあれだけの文学になるのは、仏蘭西語の力ではないかと思ふ。しかし、それよりもほんたうは仏蘭西の文化の力である。
 ルナアルは、比較的誰にでも訳しいい作家だらうと思ふ。と云ふのは、文章に固い心のやうなものがあり、それが気体的なものを発散してはゐるが、その心をつかまへれば、それだけでもう、一種独特の面白いイマアジュが浮んで来る。彼の文体は、モオパッサンのそれと反対に、伸び縮みがきかない。無理をするとポキリと折れるから、すぐにこいつはいかんと気がつくのである。そこへ行くと、モオパッサンといふ奴は、引つ張るとどつちへでも伸びて来て、うつかり元の感じからずれてしまふ。真面目に取り組むとじれつたくなる。
 戯曲の翻訳は、実際、仏蘭西の芝居を観ないと、肝腎の対話の呼吸が呑み込めないので
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