例を世界の諸国、諸民族にとれば、なほ話が解り易いであらう。英語は英国民の、仏語は仏国民の、露西亜語は露西亜人のと、それぞれ語られる言葉の色調が、直ちに、その民族の風尚気質を帯びてわれわれの耳に響いて来る。厳密に云へば、英国人の感情は、英語を通してでなければ表はし難く、仏国人の生活は、仏蘭西語によらなければ描き出すことが困難なのである。
 さう考へて来ると、ある地方の方言を耳にするといふことは、その地方の山水、料理、風習、女性美に接する如く、われわれの感覚と想像を刺激し、偶々その意味がわからなくても、なんとなく異国的な情趣と、一種素朴な雰囲気を楽しむことができる。
 さて、私の方言讃は、比較の問題にはいらなければならぬが、それは略するとして、それなら、どういふ場合にでも、方言はかゝる魅力を発揮するかといふ疑問について答へねばなるまい。
 近頃東京では、殊に私の住む郊外の住宅地などでは、東京で生れたものなど数へるほどしかなく、自然、朝夕、附近の主婦たちが、声高に子供を叱り、ご用聞きに註文したりしてゐるのを聞くと、それは東京弁と凡そ隔りのある訛りとアクセントだ。が、さうかと云つて、それは
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