欠伸の出るやうな話もあるけれど、二十分といふのはきつとすべての人間の雄弁能力の平均を云つたものだらう。なかには五分で恰度いい人もあるし、三時間しやべらせても面白い人もあるし、平均二十分といふのが、日本人の雄弁の平均点らしいですね。
 僕は、いつか放送してね。今の二十分といふことを云はれて、だいたい脚本を書くときに一枚一分といふ見当です。そのつもりで、二十枚書いて行つたのです。時計を見ると、原稿五枚ぐらゐのところでもう、十分過ぎてゐるのです。これはいかんと思つて、ひよつと飛ばして、しまひの処をなんとか繋ぎをつけて話し終つたのです。時計を見ると十七分です。少し早過ぎたな、と思つてゐたが、アナウンサーが出て来ない。人を閉ぢ籠めたまま出て来ない。それから僕は、そツと外を覗いてみたら誰もゐないでせう。仕方がないから外へ出たです、中にゐると呼吸《いき》が詰りさうだから。すると、アナウンサーが飛んできて、失礼しましたといつて、済んだといふことを放送したのです。僕は、なんでもなく家へ帰つたら、家では大騒ぎなんだ。僕の話が途切れてアナウンサーが出ないでせう。僕が卒倒したと思つたのです。眼に見えない想像で、現場のさういふ悲喜劇を勝手に創り出すといふことはなかなか面白いことで、これはラジオの一つの効果として利用してもいゝことだと思つたですね。
 ……さつき国民文学といふ話が出たですけれど、今、人が云ふ言葉をそのまま、まア使つて便利だから云ふんだけれど、今の健康な娯楽とか、健康な読み物とか、いろいろ健康といふことを方々で云ふけれど、健康非常に結構ですけれど、文学の中の健康といふことも、これもなんだか今まで漠然とし過ぎてゐますね。
 普段なら漠然としてゐて結構ですけれど、かういふ時はハツキリさせないと不便ですね。不健康でもなんでもないものが不健康だといふやうな認定をうけることだつて困るし、それから妙なものが健康面することも困ります。
 いろいろな人がゐていゝですよ。非常に立派な作家で、文学のためには自分は今沈黙するのが一番いゝんだといふ人がゐるかも知れないと僕は思ふのです。これは僕は、あつていゝ、その作家の良心は信じなければいけないと思ふのです。さういふ人がゐるか、ゐないか、おそらくゐると思ひますがね。それは尊敬すべき国民だと思ひます。さういふ作家は、或は自分の家族のものなり、隣の子供なり、
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