、精神と物質との微妙なつながりの上にたつて、人間生活の全面に亘り、合理性と気品と真の勇気を与へる尺度なのであります。
 この「人間的反省」は永い訓練の歴史を必要とし、道徳の最も健全な論議によつて生れるものでありますが、固定した社会制度、政治の圧力、民族的孤立、特に一般民衆が異民族と対等の交渉をもたなかつたといふ状態などによつて、屡々見失はれるものであります。
 その意味に於て、今日の時代は、東洋の黎明であると私は信じたいのです。なぜなら、社会万般の制度はまさに一転機にのぞんでをり、政治は下意上達の道がひらかれ、特に、民族の相互接触と共に、大規模な共存共栄の形が日常生活の上で具体化しつゝあるのであります。
 永久対立を前提とする狭い民族意識からの飛躍は、云ふまでもなく民族と民族との人間的理解を要求するのでありまして、わが日本民族は固より、率先して深くこの問題を究める覚悟がなくてはなりません。

       六

 話がこゝまで来ましたら、いよいよ本題にはひりますが、現在、国防国家の体制を整へ、国家総力戦の実績をあげるために、政治、経済と並んで、文化諸部門の動員が企てられてをりますが、皆さんも御承知のやうに、なかでも文学、芸術は、もともと、人間の精神活動がもたらす一種虚業的な存在でありまして、これを功利的に扱ふことは、その本質から云つて不純なことゝされてゐるのであります。
 しかしながら、それはやはり、観念的に云つてさうなのでありまして、国家非常の時、文学、芸術に携る国民の一部のみが、同胞の希望と運命とをよそに、ただ個人一個の空想の天地に遊んでゐていゝといふ道理は断じてないのであります。
 私は考へます。さきほど申しましたやうに、われわれは、特殊な職能をもつものとして、必ずしも日夜、天下国家を論じた方がよいとは思ひません。ペンを取り、カンバスに向ひ、楽譜をひろげる毎に、国策の向ふところを念頭に思ひ浮べねばならぬといふやうな、仕事の性質ではないのでありますが、しかし、今こゝで、文学に限つて、私の議論を進めて行きますと、文学の人類の進歩にもたらした今日までの功績に鑑みましても、国家の非常時に於る文学の役割といふものは、決して、消極的にさまざまな統制を受けさへすればそれですむといふやうな、自主性のないものではないのであります。
 文学は、抑もその歴史から申しましても、それぞれの民族、それぞれの国家が、その発展途上に於て示した最も輝かしい旗じるしでありました。それは、ただ単に、人間の研究とか、人生への考察とか、現実の批判とかいふやうな、云はゞ、世界を通じての真理追求に終始してゐるのではありません。東西古今の文学者は、常に、自己の属してゐる民族の希望と、苦悩と、時代の運命について、それぞれの立場からその代弁をつとめてゐるのであります。
 しかしながら、時に、或る作家は、沈黙を守らねばなりますまい。沈黙を守ることが国民としての義務だといふ場合もあり得るのであります。かういふ作家の良心は信じなければなりません。けれども、公然発表され得る作品について云へば、それらの作品は、それが文学と名のつく以上、狭い意味での政治的な意図を含まないまでも、広い意味に於る国民生活の推進力とならなければならぬと信じます。なぜならば、文学こそは、国民生活の、最も深い理解者であり、人間としてのわれわれの感情、意志、行動の監視者であり、批判者であり、そして屡々その誘導者であるからであります。

       七

 今日の政治は、既に文学に多くのものを求めてゐることがわかります。文学者も亦、その職能に応じて、国防国家建設の一区処を受けもつべきであることを自覚しはじめました。
 しかし、私の見るところでは、現在の政治が文学に求めてゐるものは、或は愛国心の鼓舞とか、国策の宣伝とか、健全な娯楽の提供とか、少し大袈裟なところでは、民族理想の昂揚といふやうな方面に限られてゐるやうであります。更に、文学を含めての文化政策としては、思想戦への参加といふことも唱へられてゐますけれども、その思想といふ言葉の意味が狭い政治的な範囲に止まつてゐるやうに思はれます。
 私は、こゝで、国防国家建設といふ極めて特殊な時局的表現を用ひましたから、かゝる国民的事業への邁進を、軍隊の戦闘行軍に譬へ、文学のこれに応ずる任務を大体二つに分けて考へてみたいと思ひます。
 即ち、第一は前衛的任務、これは読んで字の如く、前方の敵に備へて、本隊の進路を開き、その行軍並に戦闘準備を容易ならしめる先駆部隊の任務です。日本でも嘗て左翼文学が盛んであつた頃、これに属するある団体が自ら称して前衛と名乗つたことがあります。前衛座といふ劇団もできました。しかし、この言葉が文学、芸術で用ひられたのは、これが最初のものではありません
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