かし、国民のうちには、その方がいゝのではないかと思つてゐるものが、なかなか多い。私はその原因を指導者の形式主義にばかり帰したくはない。国民のあらゆる階級が、その職業の性質如何を問はず、所謂国策に沿ふ新しい生活体制を樹立すべき共通の一線が、ちやんとほかにあることをまだ認識してゐないからだと思ひます。
四
ほんたうの国民の協力は、めいめいの職業を通じてのみなし得るものではない。もちろん、職業は個人の生活の大きな領域を占め、直接間接に社会の機構、国家の組織に結びつくのであるけれども、それは、職業を含めて、個人個人の全生活の徹底的樹て直しといふところから始めなければ、実際の効果は挙らないのであります。
全生活の樹て直しとはどういふことかといふと、先づ人間的な反省を基礎として、国民としての自己完成に向ふことである。人間的な反省とは、早く云へば、「機械」にもならず、「動物」にもならぬといふ、この二つの限界を厳しく見究めることであります。人間は神と悪魔の間にあるもので、時としては神の性質を、時としては悪魔の性質をあらはすと云はれてゐますが、私は、その間、上下もう一つづゝの段階を設けたいのです。即ち、神と人間との間に、「機械」といふものをおき、人間と悪魔との間に「動物」をおきます。機械といふものは変なもので、順調に動いてゐる時は、殆ど人間の想像に余る力を発揮しますが、一たん破損したとなると、無気味な死の状態を呈します。特にこれを神秘的な存在とする必要はありませんが、私は、神に近づかうとする人間のたまたまこの機械に類した相貌を見てぞつとするのであります。恐らく、厳密に云へば、この機械なるものは、神と人間とを結ぶ直線の上にはないでせう。しかし、それは一種の迷路の如く、または陥穽の如く、その道の近くに横つてゐるやうな気がいたします。
次に、人間と悪魔との間にあるのは「獣」です。獣は、時には、機械と同じく、うつかりしてゐると人間をそこに連れて行くものです。悪魔のやうに術策はないけれども、これとおなじ狂暴なグロテスクな姿をしてゐることがあります。だから、なにをするかわからないけれども、その欲望が単純なところに特徴があります。獣には機械の動きに似た反復する習性といふものがありますけれども、「機械」と全く反対に、自分の目的といふものは「生存」以外にはないのであります。時と
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