をあつと言はせる様な傑作を書きました。是はどういふことかといふと、標準語を学ぶのは決して東京弁を上手に使ふためでなく、自分の使ふ言葉が相手に通じるといふ自信をつけるためなのであります。
私は方言は非常に好きです。地方の人が純粋にその土地の言葉で話合つてゐるのを聞くのは美しいものだと思ひます。公の場所では標準語が使へないと不便ですが、下手に地方弁をかくすやり方でなく、寧ろ標準語を地方語化するぐらゐの信念と気魄をもつて行きたい。全然想像もつかないやうな方言は他国の人には通じないので、これは困りますが、訛りやアクセントは、幾分残つてをつた方がその人の個性が出て、それがちやんとした教養と人間的魅力に結びつけば、どこへ押出しても立派な言葉、決して品位にかゝはるやうなものではありません。かういふ説を樹てると、折角学校で標準語を教へるために努力を払つておいでになる先生方のお仕事を無視するやうにきこえるかも知れませんが、併し必ずしも標準語普及を無意味とするのではなくて、標準語は一応日本の隅々まで徹底させる必要はありますけれども、併し方言、地方の言葉、自分の言葉を必要以上に卑下するといふことの精神を排斥したいのであります。唯自ら方言への愛情にも限界があるといふことは皆さんも御気付きのことゝ思ひます。
次に申したいことは、「書かれる言葉」としての国語乃至綴方については、今日全国の小学校で向ふところがはつきり見究められてゐるやうに思ひます。私も実はこれには感心してをります。例の「綴方教室」といふやうないくぶん変態的な産物は別として、まづ/\小学校の先生方は、この点、文章を書く、或は文章を理解する、読むといふことでは実によくやつてゐて下さると大に意を強くしてゐる次第であります。しかし「話される言葉」としての日本語の訓練は、是はどうでせう。実を申しますと、今日これを小学校の先生方に注文するのは少し見当違ひかも知れません。何故ならば現代の「話される日本語」といふものは頗る混乱してをりまして、何を標準とすべきか、何を捨て、何をとるべきかさへ何人も十分に研究してゐない有様なのですから。そこで現代の少国民に今の中から「ものを言ふ」修業をしてもらひたく、これを指導し育てあげ、小学校を出て直ぐ社会へ出て働くものと、中等学校に進むものとに論なく、何れも直ちに世俗的な「お喋り」の中にとびこんで、紋切型と
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