ほど言葉といふものはそんなものであつたかといふ驚異と好奇心とを与へることにまづ成功すればいゝのであります。ところでさういふ結果をもたらす方法について、やはり国語の教授を受持つ先生方に一通り文学の精神と技術、内容と表現についての知識と感覚を備へてゐて頂きたいと思ひます。元来現代の文学は民衆全体のもので、決してやかましい専門はないと私は考へてゐるのでありますが、例へば、大衆小説は面白いが、純文学は分らんといふ人があつたとすれば、それは文学を専門にやらないからといふのではなくて、寧ろ文学を純粋に享け容れる人間的感情が欠けて居ると極言することができるのであります。欠けてゐるといふことは、つまり円満に発達してゐないか、或はひとりでに枯渇してしまつたか、そのどちらかであります。その原因は精神的に自分を高めようといふ切実な要求がなかつたからであります。散文でも韻文でも、極く特殊なものを除いて、普通の常識的な教養で良いものは良いと感じられる筈です。それに理屈をつけることだつてそんなにむつかしくはありません。人間さへ立派に出来てゐれば、立派な批評ができます。少くとも、作家は、さういふ批評に耳を傾けるのであります。
そこで国語と文学との関係に入りますが、最初に疑問を出しました通り、なぜ国語を日本語と言はないか、私なども学校で、国語は習つたけれども、日本語は習はなかつたやうな気がしてゐる。今の小学生は、その点では随分幸せだらうと思ひますが、私がちよつと気のついたことをこゝで申しますと、第一に教科書全体が「書かれた文章」であります。勿論活字になつて居るから当然書かれた文章とも言へますが、もつと厳密な意味で書かれた文章ばかりであります。文語、口語といふ区別はあつても現代の口語体は文章として書かれるために出来上つてゐるもので、決してこれは「話される言葉」ではありません。「書かれる言葉」と「話される言葉」とが現代の日本程極端に分れてゐる国語は、ほかにはないやうです。西洋の言葉は幾つも知りませんが、「書かれる言葉」と「話される言葉」の距離が日本語に比較するとずつと近い。この現象はどういふ結果を導き出すかといふと、吾々が物を喋る時と物を書く時とで同じ事柄でも頭を通過する仕方が全く違ふといふことです。考へた挙句書く場合と、即興的に喋る場合とでは勿論思考の形が違ふことは普通ですが、その違ひ方が非常に甚
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