るものと考へられますけれども、而かもそれがまだ標準語として日本では十分権威づけられてゐないことにもなると思ひます。少くとも会話の文章の上では私はさうだと思つてをります。
 第三の現象は、日本の現在の文壇が既にその文壇の特殊語と云ふものを生みつゝあると云ふこと、つまり文壇だけで通用すると云ふやうな言廻し、更にそれが作家である場合に、知らず識らず使つて居る一つの言葉の癖、さう云ふものが既に生れつゝあると云ふこと、これは文学の畑ばかりではありませんが、ある職業は、必ずその職業の臭ひを帯びた言葉使ひを生む。それが日本では甚だしいやうに思はれます。ちよつとした例ですが、「かう云ふ風なこと」と普通言ふ場合に「かうしたこと」と云ふ言ひ方をする。これなどは殆ど現在一般に若い人の間で使はれてゐますが、この言ひ方は民衆の間から起つた言葉でなくて、文壇の習慣がヂヤーナリズムを通じて一般化したものだらうと思つてゐます。それから「かう云ふ感じの云々」、これなども矢張りさうではないかと思ひます。それからもう一つは、文壇ヂヤーナリズムを通じて用語の混乱と云ふことが見られるのであります。用語の混乱と云ふと多少専門的な
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