は、非常に複雑且つ微妙だからである。往々官憲の忌諱に触れたやうな作品が却て、民衆の貴い心の糧となり、且つ、国民全体の矜りとなるものであることが後世一般に認められるといふやうな例がいくらもあるのである。
 また、何処の国でも、民衆は「御用学者」とか「御用作家」とかいふ失礼な名称で、ある種の「国家的名士」を呼んでゐることも考へねばならぬ。
 科学文学芸術の領域では、官吏や実業家と違ひ、直接、国家へのサーヴイスの程度で、その仕事の「文化的価値」を判断するのは間違ひだといふことは、古今東西の歴史を通じて明かな点であるが、その間違ひが絶えず何処でも繰返されてゐるところをみると、日本だけは、なまじつか半可通を振りまはさない政治家によつて事が運ばれることに、十分期待がかけられないこともない。

 そこで、まだなんら具体的な発表をみないうちに、われわれとして、これ以上希望に類することを陳べる余地はないが、たゞもうひとつ、是非、この機会に当局の方針を質したいと思ふのは、林首相の「謹話」中、日本古来の精神歴史を特に尊重するやうな意味が含まれてゐるが、それは単に、広い意味の民族的伝統と解するなら差支ないが、若仮に、過去の文化的遺産乃至旧時代の社会的、道徳的規範制度風習に従つた文学芸術の意に取るべきだとすると、一方で「進歩」といふ言葉が極めて消極的となり、或は全く矛盾することになるが、これはどうかといふことである。
 甚だ愚問だとは思ふが、事、文学芸術に関する限り、現代日本の国家権力が、或は、日本的なものと鎖国的封建的なものとを混同し、西洋的なもの、影響、又は、その思想技法材料の採択による新文化運動を、一概に非民族的なものとして軽視し、若くは無視する意図があるのではないか、これをはつきり知つておきたいと思ふ。
 例へば、長唄や浄瑠璃は「日本精神」による音楽であり、歌舞伎劇は「新劇」より文化的に高級であり、裸体を描いた日本人の油絵より西洋人が富士山を描いた墨絵の方が一層日本のためになるといふやうな偏見がありはしないだらうか?
 こんなことをどうして今云はなければならないかといふと、政治家やお役人のうちには往々にしてそれに近い考へをもつてゐるか、或は、さういふ風を装つてゐるものが、かなりあることをわれ/\は気づいてゐるから、万一、今度のやうな勲章が、少数の人々に授けられる場合、さういふ標準で人
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