常に多い原因は、一般に衛生知識の不足にあるやうに考へられてをります。それで、一つ手拭を家族同志で使つてはいけない、或は手を清潔にしなければいけないといふやうな知識が普及すれば、トラホームが減少する、乃至は無くなるといふ考へ方があります。従つて対策については、先づ衛生知識の普及といふ努力が今日最も行はれてゐると思ふのでありますが、決してそれだけで農村乃至一般国民の衛生状挙が向上するわけではないのであります。
 トラホームの問題は昨日も結論が一致しました。清潔にすると気持がいゝ、清潔であるといふことに対して快感を感ずるといふ訓練が行はれなければ、決して清潔にしようといふ意欲も起らない。衛生を重んじ、体を丈夫にするために清潔にしようといふことは、人間としては殆ど実行出来ないことではないかと私は思ひます。
 日常生活を振りかへつて考へて見て、自分の体のためだから、かうしようといふやうな頭の働かせ方をすることは、甚だ稀であります。たゞ、さうするのが自分の好みに叶ふ、その方が気持がいゝからやつてゐることが、たま/\衛生に叶ふといふことが多いのであります。むしろどうかすると、衛生には悪いけれどもこの方が気持がいゝといふことを往々にしてやつてゐるのであります。
 かういふ点を考へますと、私は文化運動の最も重要なことは、文化的知識よりも、文化的感覚だと思ひます。かう申すと少し極論かも知れませんが、文化的知識と同時に、それと全く同じ重要さをもつて文化的感覚が考へられなければならない。これを留守にしておいては文化運動は殆ど掛声に終るのではないかと思ひます。

 また文化運動を進める上に於て我々として注意しなければならぬ一つの点は、文化運動に対する無理解な人達に対して、彼等が一概に悪い、間違つてゐるといふ考へ方をすることであります。私共は文化運動乃至文化問題に対して無理解さを示される場合には、一応憤りを感ずるのでありますが、これは同時に自らにも向けらるべき憤りだと思ひます。これを一つの反省の緒口にしなければならないと思ひます。
 我々日本人はどうかしますと、自分に反対するものは悪い人間だ、自分に反対するものは誤つてゐるといふ考へ方を非常にしがちであります。これは今日言はれてゐる所謂独善といふことになると思ひますが、文化運動の精神の中には、少くともこの考へ方を排し、広い判断力がなければ、運動
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