や「量見」や「根性」といふ代りに、「精神」といふ言ひ方をするものがあります。
一時、国民精神総動員といふ言葉が公に用ひられましたが、これは主として、倫理的な意味をもつてゐたやうです。私は、これに対して、国民の「精神的動員」を主張し、これは、単に倫理的な面ばかりでなく、科学的な面でも、芸術的な面でも、苟くも、日本国民の「心」、即ち「知情意」を含めての全能力を動員すべしと云つたことがありますが、これは、言ひ換へれば、「文化総動員」を指すのであります。
それはさうと、「精神一到何事か成らざらん」などといふ言葉も、どうかすると精神を意志の意味に解し易いのではないかと思ひます。
一時また、精神主義といふ言葉が流行しました。昔、精神家と云つた、あれに類する言葉でありませうが、一種の揶揄を含んだ語感があり、これに対して、功利主義、技術万能主義が挙げられるでせう。例へば物の面、形の面を軽んじ、なんでも精神だけで解決しようとするのが精神主義だとすれば、現実に足をとられて、目先の利害処理にあくせくするのは甚だしい非精神主義に外なりません。
こゝで、精神と技術といふ問題が起つて来る。この二つは、元来、対立すべき性質のものではないに拘らず、事実は、精神のみあつて技術これに伴はず、技術のみ尊重されて精神が忘れられるといふ現象が往々いろいろな方面でみられるのです。この場合の精神とは、早く云へば、「魂」のことで、現実の世界に於て、それだけではなんの力もない代り、また、それがなければ、すべてが気の抜けたものになるといふ、極めて微妙でかつ厳粛なものであります。
人間の行為といふ行為、言葉といふ言葉、みなこの「魂」の入れ方で値打が違つて来るのであります。政治、経済、外交、軍事、教育、いづれも一国の消長に関する専門技術でありますけれども、これまた、文学や芸術、さては宗教の類と同じく、立派な魂がはひつてゐなかつたら、いくら体裁ばかり整つてゐても、ほんたうの力にはならないのです。
私の眼前に台ランプが置いてあります。場所は何処でもいゝ、例の下手《げて》もの趣味の舶来模造品です。これだけを取りたてゝ悪く云ふには当りませんが、生憎、私の云はうとすることが、こゝに語られてゐます。技術としては相当手の込んだものです。「時代」をつけた蝋燭立もいゝが、しかしこの安手な感じはどこから来るのでせう。粗製濫造も品
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