技術」の数々を教へ、われわれにはじめて近代文明の洗礼を授けたのでありますが、しかし、日本の技術は、果して、西洋のそれに劣つてゐたでせうか。
この比較は、甚だ困難ですけれども、是非、一応はしておかねばなりません。なぜなら、文化とは「生活技術」なりといふ言葉まであるくらゐで、日本文化の優秀性に関する問題だからであります。
第一に、技術の生れたところ必ず自然との関係があります。第二に、技術の伸びるところ必ず、人間の生活条件がこれに結びつくのです。日本人の自然観は、その技術を極度に自然の形態に近づかしめてゐるのに反し、西洋人の技術は、寧ろ、自然の法則を逆にとつて、自然を圧倒することに終始してゐます。それに加へて、日本の地理的条件、及び、政治的事情は、わが国民をして「人間とは何ぞや」といふ問題についてさほど悩ましめなかつた。人間の本性と能力とが、人間をして如何なる生活革新をも行はしめるのだといふ、自信と希望とを持つに至らなかつた国民とは、誠に不思議な国民であります。
日本の技術は、それゆゑ、魂、即ち精神の籠つたものではありますが、西洋のそれの如く、人間臭芬々たるものは少く、却つて、人間離れのしたやうなものが多い。枯淡の境地が生れる所以であります。
言葉も亦ひとつの技術でありますが、西洋の言葉と日本の言葉とを比べてみると、まつたくその発達のしかたが違つてゐます。日本の言葉くらゐ、直接に思想感情を現さないやうにできてゐる言葉はありません。言葉に生々《なま/\》しさといふものがなく、余韻が深く、それだけに、不用意に使ふと誤解され易い言葉であります。言葉の質の高さはたしかにフランス語などに劣るものではありませんが、惜しいことに、あんまりむづかしすぎます。今のまゝでは超国境性に乏しい。特殊な時代に、特殊な環境の下に使はれる言葉としては、非常に高級な言葉なのです。
かういふ風に、「精神と技術」の問題を考へてみても、「文化」の高さといふものが、その二つの結びつき方によつてきまるとも云へます。「精神文化」と云ひ「技術文化」と云ひ、それは研究の対象として一つの角度を示すに過ぎず、文化の本質的価値は、この二つの角度からそれぞれ実体を見究めたうへ、更に、この二つの面の結びつき方に十分の注意を払はなければ、決して正確に測り知ることはできません。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
前へ
次へ
全24ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング