物言ふ術
岸田国士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)科《しぐさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Voici six chasseurs se se'chant, sachant chasser sans chien.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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「物言ふ術」とは、仏蘭西語の ART DE DIRE を訳したつもりである。
ART DE DIRE は、謂ふところの「話術」又は「雄弁術」ではない。既に「言はるべき言葉」が例へば文字として表示されてゐる、それを如何に「肉声化」するかといふことの工夫である。かういふとおかしくなるが、俳優の「白」に外ならない。
日本劇の伝統で「せりふまはし」とか、或は、「口跡」とかいふ言葉は、この「物言ふ術」の一部と見るべきであらう。
そこで問題は、わが国の演劇が「物言ふ術」を今日まで如何に取扱つてゐるかである。殊に今日、新劇の演出者が、どの程度まで、この点に注意を払つてゐるかである。
日本人は何でも型に嵌めてしまふことの好きな国民とみえて、音楽などでも色々の歌詞を同じ「節」に当嵌めて歌つたり、絵画などでも、花はかう、木の葉はかう、水はかう、山はかうと、ちやんと動きの取れない規則を作つてしまふ。それと同じに在来の芝居の台詞にしても、その「抑揚」から「緩急」に至るまで類型的な標準によつて、人物個々の心理的ニュアンスを無視してゐる。この傾向は単に旧劇ばかりでなく、新派も同様である。更に少し気をつけて見ると、新劇までが、もうそろそろ、「新劇のせりふまはし」とでも云ふやうな型を作りつつあるやうである。これは何故かと云へば、一つは劇作家にも罪がある。即ち、戯曲の文体が「どう言つてもいい」やうな文体であつたり、さもなければ「どう云つていいかわからない」やうな文体であつたりするから、従つて、俳優が戯曲から十分の「指示」を受けることが不可能なのである。
如何に傑れた演奏家でも、平凡単調な曲を弾かされたのではその腕を揮ふ余地がない訳である。俳優は、勢ひ他の方法で演技に魅力を添へなければなら
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