仏蘭西役者の裏表
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)虐《しいた》げられたる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|芸術と活動《アール・エ・アクション》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にやり[#「にやり」に傍点]
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日本でこそ、その昔は河原乞食とまで蔑まれ、大正の代にあつてすら、未だに芸人扱ひを受けてゐるわが俳優も、仏蘭西などでは、今も昔も、さぞ、威張つたものであらうと、かう思ふ人もあらうが、どうしてどうして、ルイ十四世大王の寵遇を一身に集めてゐた一代の果報者、モリエールさへ、一公爵が、その頭を抱いて撫でまわすに任せ、遂に釦の角で顔を擦りむいたほどである。
当時の学僧ボッスュエは、演劇の風教問題を論じ、俳優稼業の卑むべきを述べて、かう結んでゐる。
「世に母として、そは基督教信者たるを要せず、また如何に不真面目なる女にてもよし、その娘が、舞台に立たんよりは、寧ろ墓の下に眠らんことを望まざるものあらんや」と。
十八世紀は、自由感想の天下である。更に、クレエロン、ル・カアン、ファヴァール、アドリエンヌ・ルクウヴルウル等の名優を輩出した時代である。
ヴォルテエルは一生、役者の――殊に女優の――頼もしき味方であつた。
之に反して、ジャン・ジャック・ルソオは俳優なるものを眼の敵にした。曰く
「俳優の才能とは何だ。自己を偽る術ではないか。己れの人格を他人の人格で覆ふ術ではないか。自己を在るがまゝに見せない術ではないか。平然として激し、恬然として心にもなきことを語る術ではないか。他人の位置に己れを置かんとして、己れの位置を忘るゝ術ではないか」
「俳優の職分とは何か。金銭の為めに、自己の肉体を公衆に晒すことではないか。公衆は彼等より侮辱と罵詈の権利を買ひ受けるのである。彼等は、その人格を挙げて公に之を売らんとするものではないか。」
十九世紀に至つて、「虐《しいた》げられたるものゝ反抗」が眼を覚ます。それと同時に、タルマ、ルメエトル、マルス、ジョルジュゴット、ラシエル……等の天才俳優が簇出する。「虐げられたるものゝ味方」として、ヴィクトオル・ユゴオが現はれる。雄弁なる俳優の庇護者である。
忘れてはならないことは、ユゴオも云つたやうに、「人は、自分を悦《よろこ》ばせるものを何と
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