仏国現代の劇作家
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)時期《エポオク》

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(例)機智《エスプリ》と|寛大さ《ジエネロジテ》

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 聊か抽象的になる恐れはあるが、無趣味な数字的表記を避けて、略年代順に各作家の寸評を試みることにする。
 便宜上、時代的特色を基礎として、所謂現代劇作家の擡頭を四つの時期《エポオク》に別ければ、
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一、自由劇場時代(一八八七―九四)
二、自由劇場没落後
三、一九一〇年前後
四、欧洲大戦後
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 此の順序を以て、直ちに各作家の年齢を推断することはできない。また、現存作家よりも晩く出て早く没した作家もある。然しこれらは、仏国現代作家として一様に見らるべきものであらうと思ふ。

     一、自由劇場時代

 十九世紀中葉を風靡した浪漫主義運動の後を継いで、不完全ながら写実主義的傾向をその戯曲に盛つたのはデュマ・フィス、オージエ、フウイエ、サルドゥウ等であつたが、徹頭徹尾、写実の色を以て舞台を塗り上げた劇的天才は、云ふまでもなくアンリ・ベックである。
『烏の群』『巴里の女』の二篇は、『戯れに恋はすまじ』の作者、浪漫派劇詩人アルフレット・ド・ミュッセと共に、彼を十九世紀に於ける仏国最大の劇作家とした。
 自由劇場は、畢竟彼の作品に、文学的ヒントを与へられたと云つてもいゝ。
「舞台は人生の断片なり」と称へ、『セレナアド』『海』『主人』等の諸作を以て「活きた芝居」の標本をしめさうとしたジャン・ジュリヤンは、明かにベック門下の駿足であり、自由劇場と生死を倶にした唯一の闘士であつたが、一篇の田園悲劇『アルルの女』によつて、当時のメロドラマを一蹴し去つたアルフォンス・ドオデの純真な魅力に敵することは出来なかつた。
 ウージェエヌ・ブリュウは、ジュリヤンと並んでアントワアヌの事業に参与した劇作家である。彼の所謂「社会劇」は真摯な正義感に満ちてはゐるが、全然心理的のデリカシイを欠き、テエマの露出と冗長な論議とを以て安価な感激をそゝるに過ぎない。その数多き作品中、『揺籃』『法服』『弁護士』などは相当の世評を博しはしたが、処女作『ブランシェット』の素朴な悲劇味が、彼の芸術の、最も好ましい代弁を務めてゐる。
 自由劇場から生れて、独り新しい道を開拓した森林の哲学者、フランスワ・ド・キュレルは、『新しき偶像』『鏡の前の舞踏』『獅子の食膳』『聖女の半面』等の思想劇を提げて、先づ、仏国に於けるイプセンの影響を示し、文化と獣性の争闘を描く近来の諸作『狂へる魂』『修羅の巷』『天才の喜劇』等は、深い瞑想と明るき理智とを以て、動もすればヴォードヴィルに堕しようとする題材に溌剌たるファンテジイと鷹揚な気品とを与へてゐる。
 文学の本質を思想に置き、一作家の価値をその哲学的根柢によつて定めるものとしたならば、現代仏国の劇作家中、彼こそは、小説壇に於けるブウルジェ、詩壇に於けるヴァレリイの地位を占むべき作家であらう。
 彼は何よりも先づ「文明人の裡に巣食ふ野性」の記録者である。彼自ら、モンテエニュの思索的好奇心と、ミュッセの理智的想像の遊戯とを、自己の作品中に併せ盛らうとする企図を仄めかしてゐる。この宣言は、一面より見れば、可なり意外の感がないでもないが、彼が小説といふ表現形式を棄てゝ、一図に戯曲に頼らうとする意嚮を語るものであらうと思はれる。
 実際彼は驚嘆すべきファンテジストである。然し、そのファンテジイは、ミュッセの戯曲に盛られてあるそれらの如く、劇的本質と結びついてゐない憾みがある。言ひ換へれば、作者自身の感興が、作中の人物を完全に実在化させることを妨げてゐるやうに思はれる。
 これはキュレルが、思想家としての偉大さに反して、劇作家としては、屡々好意ある批評家を悩ます原因を作り出すのである。たゞ彼が、たまたま純然たる思索の夢より醒めて、その描かうとする抽象の人物に、心理解剖家としての鋭い体験の所産を盛る時、彼の戯曲には、めまぐるしい生命の躍動を見るのである。彼が最も優れた劇作家であり得るのはこの場合だけである。
 アントワアヌは、彼の処女作『身投げをして救はれた男』を読んで、感激の余り「傑作現はれたり」と叫びつゝ室内を歩き廻つたといふ事実から推しても、彼の作品が如何に時流を擢んでゝゐたかを知り得ると思ふが、三十年後の今日、なほ、仏蘭西劇壇の有する大劇作家として、彼の芸術が暗示する未来の路は、常に一道の光明によつて照らされてゐる。
 同じく自由劇場に於てその処女作『フランスワアズの運』を上演しながら、自由劇場とその運命を倶にしないで、今日の仏国劇壇に重要な地位を占め、且つその作品は、決して時代の推移と共に価値を減ずることがあるまいと思はれる作家に、ジョルジュ・ド・ポルト・リシュがある。
 彼はキュレルに比して、理想主義的傾向は薄いにも拘はらず、その作品の劇的生命は、むしろより豊富で、且つより力強いものがある。彼が写実主義者である点、その流れをアンリ・ベックに汲んでゐると云へば云へるが、彼の特質は、全然優れた心理解剖家であることである。彼は、然しながら、ベックの如く冷やかな眼で人生を視ることは出来なかつた。一面、情熱の詩人である彼は、その解剖のメスを彼自身の心臓の上に加へた。彼は作中の人物それぞれの中に、己れの希望、不安、懊悩、怨嗟、諦めを与へ、自らその人物と倶に微笑み、戦き、身を投げ出し、泣き叫び、息づまるのである。彼の感受性には多分の「女性らしさ」があり、その表現には極めて虔ましいコケットリイと、やゝ捨鉢な露骨さが入り混つてゐる。
 彼は自作全体に「恋愛劇」の名を与へてゐる如く、彼の作品はことごとく赤裸々な恋愛史である。華やかにも痛ましい性的争闘の活写である。彼が描くところの男女は、ことごとく「性の犠牲」であり「愛の勝者被勝者」である。
 固より、彼の恋愛観は、十九世紀末的近代主義の洗礼を受けてゐるといふ点で、一概に過去の作家とその傾向を結びつけることは許されないが、仏蘭西劇の本流を形造る心理劇、殊にラシイヌよりマリヴォオを経てミュッセに至る偉大にして光輝ある仏蘭西戯曲の伝統が、十九世紀末より二十世紀の初頭にかけて、『過去』『ふかなさけ』『老年の男』の作者、ポルト・リシュを生んだことは決して偶然ではない。
 キュレルが、近代の思想劇に一つの出発点を与へたとすれば、ポルト・リシュは近代人の感受性に根ざす恋愛心理を透して、仏国劇の伝統を継承し、これを次の時代に伝へる最も眼ざましい頂点を占めてゐることになる。
 殊に見逃してはならないことは、近代劇の重要な進化の一点が、劇的文体の完成、言ひ換へれば人物の心理的飛躍に伴ふ対話の暗示的表現が、ベックよりポルト・リシュに至つて殆ど写実の極致に達し得たことである。
 仏蘭西の近代劇が、なるほど広大な視野、幽遠な幻覚の上に築かれなかつたことは、これを認めなければならないが、生命ある現実の正しい舞台表現が、統一の持続性と論理との極めて微妙な融合によつて、一大進化の実を挙げ得たことを否むわけには行かない。
 ラシイヌによつて始められた心理解剖劇の伝統が、ポルト・リシュに至つて近代的色彩を与へられたとすれば、モリエールが開拓した伝統の一面、ヂナミスム(動性)を基調とする諷刺的喜劇の流れは、ジョルジュ・クウルトリイヌによつて、近代的ファルスの典型を示した。
 クウルトリイヌも亦、自由劇場に於て、その傑作『ブウブウロシュ』を発表した作家である。
 彼の作品は、多くは所謂「劇的スケッチ」とも称すべきもので、深刻な人生批評とまでは行かないが、犀利にして、軽妙な、性格描写の筆によつて、社会の戯画的諷刺に成功してゐる。
 彼はモリエールの如く、性格的「型《タイプ》」を創造することはできなかつたが、現代社会を形造る階級的乃至職業的「型《タイプ》」を捉へて、微細な観察を下し、これを特殊な「境遇《シチュエション》」の中に投げ込んで、一種のグロテスクな、同時に涙ぐましい笑ひを引き出す手腕をもつてゐる。
 彼は、仏蘭西人特有の凡ゆる感情のニュアンス、巴里生活の凡ゆる機微な問題を、そのゴオル人らしき機智《エスプリ》と|寛大さ《ジエネロジテ》を以て傍観し、いくらかのペシミスムと、あり余る皮肉とを、軽妙な理智の遊戯に託して、冷たい花びらの如く人の頭上に振りまくのである。
 彼の作には相当「一夜漬け」が多いやうにも思はれるが、何時読んでも、何時観ても面白いものに、例の『ブウブウロシュ』それから『署長さんはお人好し』『我家の平和』『真面目なお華客』等がある。(上記の諸作は最近に翻訳を発表する予定である)

     二、自由劇場没落後

 自由劇場の運動は、たまたま自然主義的傾向の露骨さによつて、次第に人心を離反させた。
 而も一方、既に、ヴェルレエヌ、ボオドレエルの名が詩壇を風靡し、象徴派の運動が漸次活気を呈し、ワグネルの演劇論が、舞台革命家の興味を惹き始めてゐた。
 やがて、同語国たる隣邦白耳義に、神秘主義の大旆をかゝげて、『闖入者』の作者モオリス・マアテルランクがあらはれる。
 ポオル・フォールは自由劇場に対抗して芸術座を起し、詩劇の復興を宣言して、大いにリリスムのために気を吐かうとする。(制作劇場《メエゾン・ド・ルウヴル》の前身)
 此の機運に乗じて、一躍、劇壇の視聴を集めた作家にエドモン・ロスタンとポオル・エルヴィユウとがある。
 十九世紀の黄昏より二十世紀の払暁にかけて、仏国劇壇は将に一大転機を示さうとした。
 然しながら、ロスタンと云ひエルヴィユウと云ひ、実は単なる彗星的作家に過ぎなかつた。
 一八九五年(自由劇場没落の翌年)『鋏《やつとこ》』を発表して、「問題劇」の復活を前提し、次で『炬火おくり』の舞台的成功によつて忽ち大劇作家の名を擅にしたエルヴィユウは、云ふまでもなくデュマ・フィスの思想的後継者であり、写実的手法より理想主義的傾向への飛躍に於て、やゝ古典悲劇作家の面影を伝へるものと云ひ得よう。
 彼の取扱ふ主題は常に「或る問題の解決」である。彼の描く人物は常に「或る原則の傀儡」である。その人物の性格は飽くまでも類型的で、事件の推移は余りに機械的である。彼は法律の欠陥、道徳の矛盾、因襲の誤り、制度の不合理、人情の破綻を攻撃指摘するために、一切の要件を具備した人物と、その関係と、順序正しき事件とを想像する。舞台の上には「生命の連鎖」が無い代りに「論理の脅威」による絶え間なき感動がある。
 対話は極めてぎごちない文語体で、含蓄に乏しく、しかしながら時に、単素にして厳粛な場面のトーンを作り出すことによつて、人生の瞬間的危機を、まざまざと観客の心に投映する。
 彼は冷やかな弁証家であると同時に、優しい道徳家でもある。此の冷やかさによつて人を撃ち、この優しさによつて人を動かす、これが彼の戯曲の魅力と云へば云へよう。
 時の右傾的批評家は声をそろへて彼の出現を謳歌した。自然主義末期の「卑猥劇」に眉を顰めつつあつた「真面目な観客」がこれに和した。(春陽堂版拙訳『炬火おくり』参照)
 エルヴィユウは南米の領事などもした外交官である。
 エルヴィユウの戯曲は、世評の高きに拘はらず、当時の文学的欲求を、殊に、「舞台の詩」を夢みつゝある一群の観客を満足せしめることはできなかつた。
 一八九七年『炬火おくり』に先んずること四年、ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』が、ポルト・サン・マルタン座の舞台で、観客の熱狂的歓声裡に、空前絶後の成功を収めたことを忘れてはならない。
 象徴劇の前途は、暗澹としてゐた。
 パリジャニスムを背景とする軽浮な世相喜劇は、将来、二三の才能ある作家によつて、やうやく芸術的存在となり得るのであるが、一方エルヴィユウの、動もすれば道学者的な固苦しさに、何んでもいゝ、一つの息抜きを求めてゐた時代は
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