悲劇味が、彼の芸術の、最も好ましい代弁を務めてゐる。
 自由劇場から生れて、独り新しい道を開拓した森林の哲学者、フランスワ・ド・キュレルは、『新しき偶像』『鏡の前の舞踏』『獅子の食膳』『聖女の半面』等の思想劇を提げて、先づ、仏国に於けるイプセンの影響を示し、文化と獣性の争闘を描く近来の諸作『狂へる魂』『修羅の巷』『天才の喜劇』等は、深い瞑想と明るき理智とを以て、動もすればヴォードヴィルに堕しようとする題材に溌剌たるファンテジイと鷹揚な気品とを与へてゐる。
 文学の本質を思想に置き、一作家の価値をその哲学的根柢によつて定めるものとしたならば、現代仏国の劇作家中、彼こそは、小説壇に於けるブウルジェ、詩壇に於けるヴァレリイの地位を占むべき作家であらう。
 彼は何よりも先づ「文明人の裡に巣食ふ野性」の記録者である。彼自ら、モンテエニュの思索的好奇心と、ミュッセの理智的想像の遊戯とを、自己の作品中に併せ盛らうとする企図を仄めかしてゐる。この宣言は、一面より見れば、可なり意外の感がないでもないが、彼が小説といふ表現形式を棄てゝ、一図に戯曲に頼らうとする意嚮を語るものであらうと思はれる。
 実際彼は驚嘆すべきファンテジストである。然し、そのファンテジイは、ミュッセの戯曲に盛られてあるそれらの如く、劇的本質と結びついてゐない憾みがある。言ひ換へれば、作者自身の感興が、作中の人物を完全に実在化させることを妨げてゐるやうに思はれる。
 これはキュレルが、思想家としての偉大さに反して、劇作家としては、屡々好意ある批評家を悩ます原因を作り出すのである。たゞ彼が、たまたま純然たる思索の夢より醒めて、その描かうとする抽象の人物に、心理解剖家としての鋭い体験の所産を盛る時、彼の戯曲には、めまぐるしい生命の躍動を見るのである。彼が最も優れた劇作家であり得るのはこの場合だけである。
 アントワアヌは、彼の処女作『身投げをして救はれた男』を読んで、感激の余り「傑作現はれたり」と叫びつゝ室内を歩き廻つたといふ事実から推しても、彼の作品が如何に時流を擢んでゝゐたかを知り得ると思ふが、三十年後の今日、なほ、仏蘭西劇壇の有する大劇作家として、彼の芸術が暗示する未来の路は、常に一道の光明によつて照らされてゐる。
 同じく自由劇場に於てその処女作『フランスワアズの運』を上演しながら、自由劇場とその運命を倶にしない
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