宣伝標語が示すやうな、観念としての道徳の向上振作をもつて、直ちに国民生活の調整と推進とを期することは、およそ当を得ぬと思ふ。
なぜなら、問題の中心はどういふ例を挙げてみてもいゝが、それは殆どすべて、現代日本の特殊な風俗に帰着し、風俗は、それ自身思想の色合と関係なく、また、道徳の上にのみ築かれるものではないからである。極端に云へば、水甕を頭にのせたり、腰に抱へたりすることが、それほどの道徳性をもたぬのと同様である。
特殊な風俗とはそもそも、ある地方、ある時代の人間の生活形態が他と異り、しかも、それが、そこでは当り前なことゝして通用し、或はせんとしてゐる部分を指すのである。
歴史、地理、気候風土がそれを生みだすことはたしかであるけれども、一時代の政治と教育と外部との交渉がこれに著しい変化を与へることは云ふまでもない。
風俗の研究は、それゆえ、ある単位の集団として人間の姿を描きだすと同時に、一個人の精神の生ひ立ちを知る上に必要である。希臘の哲学者が、「人はエトスの乳を飲んで育つものだ」とか、「エトスは人間にとつての運命である」とか云つたのは、さういふ意味だと思ふ。
また、「倫理的の
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