ものはすべてエトスより出て来る」とも云はれてゐるのは味ふべきことで、若し風俗が道徳と関係があるとすれば、風俗こそ、道徳の根柢なのであつて、徒らに風俗の改良を道徳の力にのみ委ねようとするのは、本末顛倒も甚だしいと云はねばならぬ。
 そこで先づ、現代日本の風俗の特殊な点を観察すると、最近の国民の心理と、時代の転換に伴ふ新旧文化の交錯といふことが著しい原因として数へられる。
 言語動作、流行趣味、礼儀作法、延いては、物の価値標準、社会秩序、すべて、これを風俗としてみて、異常、変調である。
 そこには、もとより、頽廃もないではない。しかし、それ以上に、混乱より来る不安定と、棄てるものを棄て去り、身につけるべきものをまだ身につけてゐない空白の状態とがある。頽廃も混乱も空白も、つまり、外観は野蛮に通じるのである。

       四

 それゆえ、道徳性の弛緩といふことが、現象としてはたしかにそれらの風俗のなかに見られないことはない。けれども単なる道徳観念は、それが直ちに行為となつた場合でさへも、人を打つ力はないのである。道徳が真に民衆の理想を導き、これに醇乎たる人間的な生活の裏附をするためには、道徳の風俗化といふことが、昔から行はれて来たのである。為政者は口に道徳を唱へる前に、民衆の心理と、時代の動向をとらへればいゝのである。風俗を道徳的にのみ矯めようと努力するよりも、風俗の本質を見究めて、新しい出発を企図すべきである。
 目下の情勢に於て、国民の実力が発揮できないおそれがあるとしたら、それは、所謂、国民精神の涵養が足りないのでもなく、時局の認識が欠けてゐるためでもない。現在の国家的危機を国民自身の危機として痛切に感じないためであるとする説がまづ正しい。この危機を痛切に感じないといふことは、時局拾収の難事業を指導しつゝある国民の代表者たちの表情が、国民全体に向つて示さんとするところのものを適確に示し得てゐないところから来るのだと思ふ。
 お互にぎごちない身振りだけが目立ち、何を考へてゐるのかわからぬぐらゐ焦れつたいものはない。やがて、事実がわからせてくれるであらうと、国民はたゞ待つことに慣らされた。
 私は政府当局の誠意と国民の本心を信じてゐるけれども、これはこのまゝではいかぬと思ふ事実が一向に改らぬわけをいろいろ考へてみて、われわれは、今こそ、もつと、われわれ自身を知らねば
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