、私の鼻をかすめたのだ。なんの臭だらう。さう思つて、あたりを見まわして見るが、その臭は、何処から臭つて来るのでもなく、実は自分の鼻の孔に籠つてゐるらしいのである。
 私は、鼻をくん/\云はせて、この不思議な「臭の幻覚」を追ひ払はうとしたが、全く無駄であつた。
 それはたしかに、あの栗焼きの店が出る頃の、人通の絶えたリユウ・デユトオの臭である。更にまた、外套の襟に頤を埋めた無帽の少女が、最後の廻れ右をするオヂオン座横の露路の臭である。
 かういふ不思議な現象が、最近五、六度もあつたらうか。いろ/\研究の結果、それは私か多少とも風邪を引いてゐる時に限るといふ奇妙な事実を発見したのである。
 私は、今また風邪を引いてゐる。そして、幾冬かの間嗅ぎ慣れたかの巴里の夜の臭を、今、懐かしく嗅ぎ直してゐる。
 さうだ。今でこそ懐かしいなどと云つてゐるが、その臭は、私の過去を通じて、最も暗く、最も冷たい放浪時代を包む呪ふべき臭だつたのである。
 風邪と巴里とが結びついた序に、巴里で風邪を引いた時のことを考へ出して見る。
 いよ/\伊太利《いたりー》へ発《た》つといふ間際に、発熱三十九度何分といふ騒ぎで、
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング