のですか。あの「微笑」がお気に召さないのですか、聡明なるペシミストの微笑が。――それはよくわかります。
 人生に触れ方が足りないとは、どう触れ方が足りないのですか。ルナアルの人生観が浅薄だとおつしやるのですか。それとも、誤つてゐるとおつしやるのですか。人生の観方は一つでなければならないのですか。人生は必ず、武者小路氏の観られる如く観なければならないのですか。ルナアルの芸術は、常に、一種の禁欲主義的思想に彩られてゐます。武者小路氏は、そこを不満に思はれるのでせう。――それならよくわかります。
 以上が、武者小路氏のルナアル観に対する註釈である。
 つぎに、武者小路氏は、西洋の作家は「言葉を活かす」ことに於て傑れ、日本の作家は「沈黙の価値」を識ることに於て一日の長があると云はれる。
 西洋の作家の一例として、勿論ルナアルが引合ひに出されてゐるわけである。
 第一、「言葉を活かす」ことゝ、「沈黙を利用する」ことゝ、それほど違ひがあるであらうか。「言葉の活かし方」が、暗示的であればあるほど、「沈黙が利用され」たことになるのではあるまいか。そして、この点が、近代文芸の特質を形る重要な傾向ではあるまいか。
 マラルメとマアテルランクは、此の意味で、最も「言葉を活かし」、最も「沈黙の利用」を識つてゐる作家であつた。そして、彼等象徴派の詩人と並んで、昨日までは一個の自然主義者と目されてゐたジュウル・ルナアルが、今日、最も新しき芸術の開拓者として、世人の注目を惹き出したことは決して偶然ではないのである。
「沈黙と闕語とに生彩あるイメージを与へ」簡素にして含蓄多き文体を渾然たるリリスムの域に押し進めた彼れは、如何に「沈黙の価値」を識る日本の作家中にも、稀に見るべき「沈黙の利用」者であると云ひたい。
 殊に、問題の作品は心理解剖の喜劇である。作中の人物をして比較的「多く語らしめる」ことは理の当然である。「多く語る」こと、「寡く語ること」が直ちに「沈黙の価値」に関係はない筈である。此の意味で、日本の劇作家は、その作品中に、あまり「多く語る」人物を使つてゐない。それは事実である。寧ろ、日本の作家がその作中に描く人物は「別に何も言ふことがない」のかも知れない。これまた、「沈黙の価値」と少しも関係はない、若し多くの日本の劇作家が、その作品中に、「沈黙を利用」するとしたら――恐らく無意識に――その
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