ほど、マアテルリンクが有つてゐる「あるもの」さへ欠けてゐるであらう。しかしながら、日本に、日本の文壇に、あれほどマアテルリンクの名が宣伝されたのに反して、ポルト・リシュの芸術が時代を同じくして、而も、その片鱗すら紹介されずにゐたことは、今更ながら残念至極である。――それにしても、ブリュウは果報者だ。彼もまた小学生のやうなフランス語を書いて、不勉強な外国人に取り入つた。一世の皮肉屋バアナアド・ショウも、ブリュウのフランス語は読めたが、ポルト・リシュのフランス語は読めなかつたのかも知れない。いや、そんな筈はない。彼はきつと『ふかなさけ』も『過去』も読んでゐないんだらう。

 実に鬱陶しい空だ。ヨーロッパにゐて、「雨期《セエゾン・ド・プルユイ》」などといふ言葉を聞くと、、植民地か何かのことのやうに思ふのだが、そして、一種、エキゾチックな風物を想ひ浮べて自ら恍惚とすることさへあるのだが、日本の梅雨期なんていふものは、暑さ寒さにも増して不愉快なものだ。
 それや、歌によんだり、詩に綴つたりするなら、梅雨だつて地震だつてよからうが、私は、元来雨を怖れること買ひたての麦藁帽子の如くである。外出して雨
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