してその自覚が疑われるということは、つまり、俳優とはなんぞやという問題について、俳優自身が徹底的な考え方を今日までしていなかったところにも確かに罪があると思う。また、世間一般も俳優とはなんであるかということに就いて、やはりそういうところまで考えてみなかった習慣が今日まで残っている為だと思う。そこで俳優とはなんぞや――俳優がこの世の中にあるその意味を、もっと大きなところから考えてみなければならない。それが一つです。
 もう一つその問題について考える準備として、いつたい[#「いつたい」はママ]芝居というものはどういうものであるかということです。その問題もまた今まで、芝居とは、或は演劇とは、という定義がいろいろ下されている。それらの定義が、やはり、芝居というのはこういうもの、演劇というのはこういうものであるという、その定義の下し方がやはり殆ど常に、それをただ単に他の芸術と区別するために作られた定義にすぎないのです。もう少しむずかしくいうと、美学的定義というものが非常に多い。例えば、美術ですが、絵とはこういうもの、彫刻とはこういうもので、或は音楽とはこういうものであるとして、それらの音楽とか美
前へ 次へ
全106ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング