ところはないでありましょうか? 変ったところがあってはいけない、如何なる場合でも俳優であるという意識を失わない、それがやはり立派な俳優である、という一つの説。俳優でも、人に接する時には所謂俳優であるという意識を捨てて、全く一個の人間として人に接すべきであるという説。
この二つの説がありますが、実際その何れかをみな実行しているわけです。私も日本の有名な俳優を幾人か知っております、西洋の有名な俳優に幾人か接したこともあります。なかには比較的親しく、その人の日常生活も知り、また平生ひとを引見する時の態度を観察したことのある人もあります。大きく分けて、やはり今云ったように、所謂俳優としての意識を絶えずもって人に接している人と、俳優であるという意識を全くもたないで、少くとも脱ぎ捨てているかの如き態度で人に接している人と、大体二通りに分けることができる。
それは一体どっちがいいのか。この議論は寧ろ諸君に私の方から聴きたいくらいですが、これは一概にどっちがいいとは云えないと思います。何故かというと、その二種類の俳優に会った印象から云えば、そのいずれにもいい所がある。絶えず俳優らしく、俳優としての
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