のを、余り尊敬すべき仕事でないと考えるような一つの偏見が先ずある。もう一つは俳優になっている人、即ち俳優自身についても、その日常の生活や社会人としての行動や、職業意識の現れなどから、これを普通の人間として尊敬できないものであるかのような考え方をするものがないでもない。みなさんは、俳優を志望するに当って周囲の眼がなにを語っていたか、思い起すことができるでしょう。おそらく、それは複雑なものであったろうと思います。
 俳優の仕事自体に対する偏見、俳優を人間として見ての偏見、その二つを今あげましたが、それを一つ一つ分けて申します。俳優の仕事が尊敬すべき仕事ではないというような考え方は一体どういう風にして起って来たか。この前お話をしましたように、俳優とはなんぞや、俳優の天職とは何か、それがはっきりわかれば、俳優の仕事は十分尊敬すべき仕事であり、また俳優は人間として、ほかの仕事に携っている人間と少しも変ったところはないのだということがわかるのですが、それにも拘らず、前に云ったような偏見が世間にあるのはどういうわけかというと、先ず第一に、俳優芸術というものに対する理解がないからです。
 俳優は公衆の前で自分以外の他の人物に自分を擬する。これは考えようによっては、身分本来の姿を隠して、自分と全く異った別の人間の振りをすることだ。この考えを押しすすめて行くと、己れを偽って、そうして全く自分とは関係のない他の人間であるかの如く人に信ぜしめるということです。こういう風にいうと、問題が面倒になります。人間は自分というものを偽ってはならぬ、自分というものをちゃんと、ありのままに、示すことが、普通一般に立派なことと考えられております。ところが俳優というものは、自分をそのまま人に見せない、人の眼をだますことを商売にしている、うまくだませばだますほど人がよろこぶと心得ている、これはどうしても普通の道徳と相反する行為をしているのである。こういう風に俳優の芸術というものをみれば、おのずから偏見が生じるわけです。
 世間一般は必ずしもそういう風に理屈はつけていない。理屈はつけてはいませんが、なんとなく俳優の仕事を見る場合に、こういう見方もできるものらしい。これでは彼等としても俳優の仕事を尊敬することはできません。それではそういうことを理屈としてちゃんといった人がいるかというと、これはなくはない。それで最も有名なのはフランスのジャン・ジャック・ルソーという人です。ルソーは御承知だろうと思うけれども、いわゆる近代思想の一方の代表者で、文学の上でいわゆる自然主義の開拓者の一人です。つまり、人間は自然にかえらなければいけない、人間のいろいろな粉飾というものを去って自然にかえらなければいけない、一口にいうとそんな倫理を説いた人ですが、そういう人であればこそ、芝居というものがそもそも面白くなかったのでしょう。殊に俳優の業というものは一人の人間を最も自然の姿から遠ざけ、いろいろな粉飾を施すことによって自己を没却してしまうもののように見たのです。これはルソーの倫理学からいえば、一つの邪悪である。ルソーはそういう風に一つの哲学的立場から俳優の仕事というものを非難し、軽侮している。この考え方はいわゆるルソー流の考え方で、世間一般はこれほどはっきりした思想の上に立っていませんが、理屈をつければそういう理屈になりうるような、そういう感情が一般にあることを、先ずみなさんは知っておいていいと思います。またそういうことを薄々感じていられる方もあると思います。しかし、俳優の芸をこういう風にみることは、即ち演劇というものを否定することになります。これはルソー以来今日まで、ヨーロッパ諸国のなかでも、必ずしも跡を絶った思想ではない。社会一般が感情的に俳優の仕事をそんなに尊敬しないばかりでなく、ルソーのようなはっきりした考え方を持っているものがまだいます。
 日本ではどうかというと、これは御承知と思いますが、「河原者」という言葉がある。「河原乞食」ともいいます。これは元来歌舞伎劇というものの成立を調べれば直ぐわかるのです。例えば、於国という出雲神社の巫女が、平生は神社の巫女として神聖な歌舞を業としていたのですが、彼女は自分の芸を一般大衆の娯楽にまで押進めようとしたのです。そこで、京都に出て、三条河原に小屋掛けの舞台を作って、そこで極く原始的な楽劇をやって見せた。この河原というのは当時の都市に於る唯一の広場です。そこで、おそらく、他の都市に於ても、この種の興行物は河原を選んで行われたろうと想像されます。ともかく、この歌舞伎の小屋が河原にたてられ、俳優はこの小屋で起居したというところから、一定の住居もなく、芸と媚を売って諸国を転々とする男女、即ち「河原者」という名がつけられたのです。
 近代の演劇史を通じて
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