り、非常に悪魔の如くでもある。また同時に優しい所もあり、虫けらの如くきたない所もあるのです。そういう複雑な姿をもった人間の夢はなんでありましょうか。これは必ずしも美しい夢ばかりではない。神聖な高い夢ばかりを描いているのではない。そこで、俳優が自分の仕事を真面目に考える時に、よくそれを分析してみる必要がある。例えば、ここでもし人間の夢というものが非常に美しい神々しいものであるならば、俳優は決して舞台の上で悪魔の役をしたくはないし、また人間の夢が非常に贅沢なものであるならば、俳優は舞台の上で一つの苦痛なり悲しみなりの表現というものをするのを決して楽しいと思わない。しかし、人間の夢というものは、今云ったように、複雑なのであります。そこで人間は、自分が悪人であったら、或は自分が非常に大きな苦痛を味ったらと、そういうことを空想することの快感というものを持っている。何故そうであるのかというと、それは結局自分は現実の生活に於てそうでありえないという決定的な事実に基づいている。現実の生活ではそうありえないということを、ただ空想の世界に於てだけそうありうることが、人間の夢なのです。そこが楽しいのです。一つの道徳論としては、勿論そういう人間の夢を批判する余地はあります。そういう夢を抱くことが果して正しいかとか、果して人間としてけだかいことであるかとか、そういうことの批判はあります。しかし、事実として人間の赤裸々な姿を考えた場合には、人間の一面にそういうことがあることは決して忘れてはいけない。つまり人間は神の心を宿し、同時に悪魔の心を宿し得る。神であると同時に悪魔である。神であると同時にということはいい過ぎかも知れませんが、神の一面をもっていると同時に悪魔の一面をも持っている。そこに人間の面白さがある。そういう面白さというものがつまり芸術を生み出すのです。
芸術はある意味で人間の研究である。人間研究のメスはその人間の二つの面に容赦なく加えられなければならない。容赦なく加えることで初めて人間研究はできる。
そこでもう一度前にかえりますが、俳優の天職というのは、そういう人間の姿を普通の人間が現実の生活に於てはいろいろな事情、いろいろな条件でそれを現わすことが出来ない、満足させることが出来ない、そういう人間の羨望をいろいろな機会にいろいろな形で俳優は身を以て舞台の上でそれを示す。それを示すということが、結局どういうことになるかというと、一般の人間の渇望をいやすということです。即ち、一般の人間がそれによって自分の心に一つの楽しさを与えられ、自分の心を豊かにする、その糧となるということです。どの人間も、人間研究というものをそんなに十分にやっているものではない。自分が人間でありながら、一番わからないのが人間の姿であります。その人間の姿をいろいろな形で示すことが、それらの一般の人に心の糧を与えてやることになる。俳優はそういう意味での糧を一般の人に与えなければならない。
こう考えてくると、俳優の天職というものは他の社会の何れの職業にも似ていない。同じ芸術の畑の中でも、他の芸術家とはまた非常に違ったところがあります。どこがいちばん違っているかというと、それはいうまでもなく、自分の肉体そのものを表現の具とすることです。唯一つ舞踊というものがこれに似ている。舞踊と演劇との違いはまたいずれいいます。この自分の肉体を以て表現するということで以て、次の問題になる俳優の素質ということになるのですが、しかし俳優の天職という問題でもう少しいいたいことがあります。
これまでのところで、表面から見た俳優の天職ということは大体わかったと思います。これを今度は裏から見る。俳優の天職を裏から見るということはどんなことかというと、今日一般世間の人が俳優の仕事を考える場合になんとなく真面目に取りあげないようなところがある、世間の通念は俳優の仕事というものをほんとうに真面目なものとしてみていないようです。その偏見はどういう所から来たか、その偏見をどういう風に是正しなければならないか、という問題が残っております。
諸君は一般世間が俳優というものをどんな風に見ているかということについて、或ははっきりした知識がおありにならないかもしれない。何故かというと、諸君は非常に若い。そうして現代では俳優というものの世間の見方がいくらか変って来ております。かつてはなかったような、俳優に対する一つの正しい見方というものも相当拡まっている。それで、諸君は或はそういう見方のなかで育ち、そういう見方のなかで仕事をしている結果、世間の底流をなしている部分に、まだ俳優の職業に対する誤った観念が厳然と残っているということを気づかれないかも知れない。はっきりいいますと、これは日本ばかりではありませんが、俳優の仕事そのも
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