人間ならば、自意識がないということはないのです。自意識が全くないというのはどういう人間でしょうか。まず動物に近い阿呆です。これはじっさい自意識がない。自分が何をやっているのかまるで知らないような状態です。よくまあ平気であんな恥しいことができる、というが、それは自意識の欠乏しているということを云い現わしています。
 ところが自意識の普通のあり方というのは、自分がこうしているのだということを絶えず頭の中で考え、そうしてそれを批判し、自分の心に手綱を附けてこれを御して行くことです。自分が何か拙いことをいおうとすると、手綱を控える。故なく躊躇すると、手綱をゆるめて自分を前に出す。自意識が過剰だとその手綱をいつでも引締めている。皆さんは人が馬に乗って居るのをよく御覧になるでしょう。或は自分で馬に乗る方もあるかも知れないが、馬は首をうしろへ引いて口からあぶくを出す。ぐっと手綱を引締められているからです。ああいう状態に人間の心があるのが、自意識過剰の状態です。
 この自意識過剰の状態が、ある場合には羞みとなり、また、てれるということになる。しかし、羞みとか、てれるとかいうことは、ある瞬間、自意識が過剰に陥る場合ですけれども、これは誰でもあることで、別に不思議なことではない。羞んだりてれたりしない人間は恐らく一人もいないでしょう。これは別に問題にはならない。殊に若い女の人の羞みというものは、極く自然な美しいものとされています。男の人でもてれるということは、なかなか愛嬌のあるものです。しかし、この羞みも照れるも、極端になると始末がわるい。日本人くらい、その点で、ひどく羞み、照れる国民はないのです。これは日本人が、世界のどこの民族に比べても、自意識が多すぎるという証拠です。
 そこで、日本人全体を標準にして考えると、適度な自意識をもつということが先ず必要ですが、俳優の場合は、更に、普通の人よりは少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識が過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも、少しくらい自意識が少くても構わない。つまり自意識の過剰に陥ることがない為には、普通の人よりも自意識が幾分少くても、それほど、その俳優の欠点にはならない。これは勿論、舞台の演技を中心として云っているのです。舞台に立つうえから、どうしても自意識過剰が邪魔になる。しかし、日常の行動や素行というような問題で、一
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