こで、顔かたちが、整って美しいということは、俳優としてそれだけで或る特権を与えられているようであるけれども、しかしまだ、唯それだけでは、なんの役にも立たない。何故ならば、顔かたちが整って美しいということよりも、顔かたちはいわゆる普通の標準で整っているとは云えない、寧ろいろいろな欠点があるけれども、しかもなお、人を惹きつけ或は人の眼を引く一つの魅力がある。そういう場合の方が、はるかに俳優としては成功する場合が多いからです。俳優は時としてその顔かたちの所謂整った美しさによって、それだけで観衆の注意を引くし、又所謂多くの崇拝者を持つこともできるのであるが、しかし、それだけでは芸術家として伸びるものではない。顔が美し過ぎるために芸が上達しない例は今日まで俳優の歴史を通じて沢山あります。
 天性の麗質も、それを更にいろいろな方法で磨かなければ、ほんとうの意味で人間としての魅力にはならないので、もしそれだけで満足するようなことがあれば、天性の麗質は宝の持ち腐れとなるばかりでなく、そういう俳優の末路は、むしろ一段と不幸なのです。そこで普通いう意味の美男、美女ではないが、しかし、どこかに魅力があるというような俳優は、一面、精神的にある特徴を備えているためもありますが、一方では、真面目な修業によって、自分の芸を磨いて行こうとするところから、益々美男、美女でないことが、ひけ目にならなくなります。それを思うと、肉体に自然に与えられた美質というものよりも、寧ろその肉体をいろいろな方法によって磨き鍛えることによって、一層魅力づけるということが大切だということになります。
 その肉体を磨き鍛える方法は、どういう方法かというと、無論お化粧ということもあるし、肉体的訓練ということもある。もう一つもっと大事なことは、精神的な訓練によって、その結果を肉体の上に現わす、これが最も大事なことです。この肉体と精神との関係というものは、今日まで、一般に俳優の肉体というものを考える場合、みんなが考えていたことではない。しかし、これからの俳優は、特にその点を大いに研究しなければなりません。いい換えれば、肉体には一つの表情というものがある。その肉体の表情というものは、主として精神の現われなのである。例えば、一人の俳優の顔を例にとって見ると、その顔が美しいとか綺麗だとかいうことは、その顔の値打を批評する言葉の全部では
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