自分でもっているということになるのであって、この形がそもそも俳優というものの仕事を生み出す一番もとの形であると、今日では考えられている。
 そのお祭の中で、神と人間との媒介をする人間というものはどういうことをしたかというと、一般民衆を代表して神に祈りを捧げ、神を祭ると同時に、一般民衆の方に向って神の言葉を伝える――そういうことをしたのです。それが初めは民衆のなかから何か知れない特別の力を持った人間がそういう風に選び出されて来るのですが、やがてそれが一定した職業になって来る。そうすると、ここにまた一層、今日いうところの俳優的な特色というものがましてきます。俳優的な特色というものがどういう風にして増して来るかというと、その聖職者は、ただ単に神の言葉を伝えるだけでなくて、それが如何にも神の言葉であるかの如く、その人間は如何にも神そのものであるかの如き印象を一般の民衆に与えることが非常に大事であります。それが一つです。
 もう一つは、殆どどの宗教もそうでありますけれども、神の傍には悪魔がいる。ある時は悪魔の危害から脱れる為に神に祈る、或はまたある時は、神の怒りにふれて悪魔の手に委ねられる、という運命に一般の人間はあるものと信じられていた。そこで、その神に仕える所の聖職者は、ただ単に神の姿を一般民衆に髣髴として見せ、神の言葉を恰もそれが真実の神の言葉であるような印象をもって伝えるばかりでなくて、一方に於て、その神と対立する所の悪魔の姿をも一般民衆にまざまざと伝える必要があったのです。そこで、その聖職者は、一人でもって、時としては一般の民衆を代表する人間の姿となり、時には一般民衆に絶大な力をふるう神そのものとなり、また時にはその神と対立する所の悪魔の姿をさえも借りることがあった。その聖職者は、人間であると同時にまた神であり、悪魔であるという一人三役を演じることになる。
 これはさっき聖職者の職業的な必要からということを云いましたけれども、しかし一方こういうことがまた云える。職業的なという言葉を余り現代風に解釈してはいけません。即ちその聖職者が自ら神の名に於て一般民衆に接するということはどういうことかというと、それは決して今日いう所のいわゆる職業的必要からではなくて、それはまた同時に人類が本能として持っている自己の理想化ということの一つの現われなのです。自分に理想的な姿を与える、
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