聞かせるのは、俳優のまた一つの力である。その力は、声以上の魅力であるに違ひない。この例が古今東西を通じて少くない。
声は柄《がら》の一部とも見られる。そこで今度は俳優の柄といふ問題である。
日本でも西洋でも、古典劇には、この柄を基礎にして、所謂「役柄」の制度があつた。
西洋では、その分類が一層複雑を極めてゐた。このことについては、別の機会に述べるつもりであるが、かくの如く、俳優の容貌風姿を標準にして、その扮する役割を局限した結果が、俳優の職業的関節不随を生ずるに至つたのは当然である。
今日では、余程この風習は廃れて来たが、まだ類型的人物を、類型的に演出することを以て能事終れりとする「通俗俳優」(この名称は通俗作家の名と共に存在すべきである)の間に於ては、なほ墨守されてゐるやうである。
柄のみに頼つて、「地」で行かうとする演技、これは、「頭」のない役者の陥り易い誘惑である。
声と同様、柄も亦、ある程度まで、これを征服し得るものである。否、寧ろ、この征服によつて、最もオリヂナルな演出を見うるのである。
記憶力は、ここでは、云ふまでもなく、台詞を記憶する力の大小である。
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