に至つて、彼が最も親しむべき戯曲家であることを知つたのである。私は此の場面が好きだ。古今東西を通じ、私の知つてゐる戯曲といふ戯曲の中で一番どの場面に感心したかと問はれれば、私は躊躇することなく、「此の場面」だと答へるだらう。
 私が巴里で観たイプセン劇はたしかそれだけだつたと思ふが、よく考へてみると、デプレ夫人や、フェロオディイのやうな、或はまたルュニュ・ボオのやうな、特別の役者でさへも、仏蘭西人は結局、諾威人に扮することが出来ないのではないかと思つた。それはジェミエが日本人に扮するよりも難事ではないかと思はれる。或はまたそれ以上にスカンヂナヴィヤの劇を、仏蘭西語で演じることが無理なのではあるまいかとさへ思はれた。
 さう云へば思ひ出すが、ポオレット・パックスといふサラ・ベルナアル座の女優を、一度ピトエフが「海の夫人」に見立てたことがあつた。その時に私はつくづく民族の距りといふものを感じた。同じ白人種間に於てでさへ、翻訳劇演出の困難は想像以上である。イプセンの戯曲を読んだ後、これを巴里の舞台の上で観て、実際私の得たところは、此の感想以外の多くのものではなかつた。



底本:「岸田國士
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