ちやうど茶を入れかへに来た細君が、じつと息を凝らした。
浦野今市君は、ほとんど泣き笑ひとも云ふべき表情で、旧友遠山三郎の口元を見つめてゐた。
「ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ」
「誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思ふなら……」
と、までは云つたが、証拠とてはなにもない。
「本当ですか、奥さん?」
「はあ」
細君はさう答へたが、ふと、それだけではなんとなく夫にすまぬ気がして、
「さうらしうございますわ」
と、附け足した。
「さうか。そいつはどうも……」
と、ひどく悄げ返る旧友遠山三郎の様子に、浦野今市君は、こゝぞと勇をふるひ「僕なんぞは、君、これくらゐのことでもしなけれや銃後の御奉公にはならんよ」と云ひかけて、それは胸の中へぐつと押し返した。
「しかし、弱つたな、部屋をとつて来たんだよ。それぢや、飯だけつき合へよ。酒はどうでもいゝから……」
数刻、押し問答の末、浦野今市君は、ともかく友情の拒むべからざるを知り、酒の方は一滴も飲まぬからと念を押して、夕暮の我が家を出た。
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