気味わるくさへ思つた。
 しかし、なんで、その事にわざわざ触れる必要があらう。
 細君は、それが初めからのことのやうに、良いとも、悪いともいはなかつた。たゞ、目立つて無口になる夫に、一言でも多く喋らせる工夫をした。家の中の火が消える思ひであつた。
 日曜日の午後である。
 浦野今市君は、庭の小さな花壇を野菜畑に掘り返すことを思ひたち、長女の二年生に二十日大根の種を袋のまゝ持たせ、
「まだ袋を開けちやいかんよ。ちやんと畝《うね》を作つてからだよ。かういふ風に塊りのないやうに土をならしてからでないとね」
 お隣で借りた本物の鍬を、浦野今市君は、娘の前で、さも玄人らしく、軽々と振つた。
 そこへ、珍しく、旧友の遠山三郎が訪ねて来た。
 種はあとで蒔くことにして、浦野今市君は、ひとまづ手を洗つて座敷にあがつた。
 遠山三郎は、別に用事があるわけではなかつた。たゞ、最近南方から得た便りなどを二、三紹介し、誰彼の幸、不幸について噂をし、総理大臣の健康を案じ、そして、最後に、酒を特別に飲ませる家を見つけたから、
「是非久しぶりに君を誘はうと思つてね」
 と、なにも知らぬ風で、話をそこへもつて行つた。

 ちやうど茶を入れかへに来た細君が、じつと息を凝らした。
 浦野今市君は、ほとんど泣き笑ひとも云ふべき表情で、旧友遠山三郎の口元を見つめてゐた。
「ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ」
「誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思ふなら……」
 と、までは云つたが、証拠とてはなにもない。
「本当ですか、奥さん?」
「はあ」
 細君はさう答へたが、ふと、それだけではなんとなく夫にすまぬ気がして、
「さうらしうございますわ」
 と、附け足した。
「さうか。そいつはどうも……」
 と、ひどく悄げ返る旧友遠山三郎の様子に、浦野今市君は、こゝぞと勇をふるひ「僕なんぞは、君、これくらゐのことでもしなけれや銃後の御奉公にはならんよ」と云ひかけて、それは胸の中へぐつと押し返した。
「しかし、弱つたな、部屋をとつて来たんだよ。それぢや、飯だけつき合へよ。酒はどうでもいゝから……」
 数刻、押し問答の末、浦野今市君は、ともかく友情の拒むべからざるを知り、酒の方は一滴も飲まぬからと念を押して、夕暮の我が家を出た。
 
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