ます。さういふ努力の結果が中央の学界を刺戟することになればもつけの幸ひです。結局は、僕の学問に対する情熱が、郷土と家とをはなれてあるのではなく、寧ろ、それへの愛着と献身とによつて一層確かなものになるといふ信念に到達したのです。
そこで、僕は兄さんにご相談したいのです。男の兄弟は僕たち二人ですから、本来なら兄さんが家に留まるべきだと思ふのですが、それは恐らく無理でせう。兄さんは恵まれた才能に従つて東京で好きなことをやつて下さい。日本の経済界の立て直しをやつて下さい。僕は、幸ひ次男として、誰からも強ひられず、不本意ながらといふのでなく、自分の興味と本性の命ずるまゝに、兄さんに代つて家を護ります。わが××町のために一生を捧げます。どうか、僕のこの願ひをそのまゝ信じて下さい。
[#ここで字下げ終わり]
鳥居朝吉君は、読み終つた手紙を膝の上に置き、「畜生ッ」と肚のなかで叫びながら、ぐつと胸をつまらせた。
禁酒
浦野今市君は八歳の時から酒の味を覚え、三十五歳の今日、酒さへあれば何もいらぬといふほどの酒好きになつてしまつた。
八歳の時から酒の味を覚えたといふのは、彼が酔へば必ず誇張を交へて語る昔話によると、父親が将来酒の飲めぬやうな男になつてはいかんと、小学校へ上つた年から彼に晩酌の相手をさせたといふ。従つて、十一歳にして既に管《くだ》を捲いたほどの神童で、と、これが人を笑はせる「落ち」なのである。
浦野今市君は、むろん今では一家のあるじである。貞淑な細君と、可愛らしい二人の子供とを、月九十何円かの月給で養つてゐる。
生活は決して楽ではない。その上、最近は債券を買つたり、貯金をふやしたりするために、消費の節約が絶対に必要とあつて、細君に気を揉ませるまでもなく、当人自ら進んで、酒代といふものを予算からきれいに削除してしまつた。
予算はきれいに削除したけれども、そこにはまだ余裕があつて、たまには好い機嫌で家に帰ることもある。懐をいためないで酔ふ方法がなくもなかつたのである。
ある日、浦野今市君は、しみじみとした調子で細君に話しかけた。
「おれは不思議なことを発見したんだが、同じ酒でも、近頃のやうに、只の酒ばかり飲んでると、どうも人間がだんだんひねくれて来るやうな気がする」
「それごらんなさい」
と、細君は、憂はしげに眉を寄せる。
「だから、どうしたらいゝ
前へ
次へ
全10ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング