上程度の学力あるものを、その他のものゝ約百分の一と考へてみよう。実際はそんなにないかも知れぬが、都会に育つといふことは、ある意味で、本人の努力と野心が伴へば、学校は早く切りあげても、知的教養の水準はいろいろの方法で高まるものである。かういふ風に見て来ると、都会はともかくも、知的な需要を満たすひとつの場所でもあり、また、知的なものによつて動かされても行く一個の国民集団であると云へるのである。
知的な文化設備の必要もそこから生れるが、また、その設備の程度、即ち量と質との観察によつて、その都市の文化程度、それが若し、一国の首都であれば、その国家の文化水準が推し量られるわけである。
市民の知的な誇り、国民の文化的優越感は、それゆえに、常にこれが完備を目標として進むのが世界各国の例になつてゐる。政策的にも亦、単に教化の資料とするに止まらず、これをもつて国家が外国に自国文化の高度を誇示すると同時に、国民の自負、即ち祖国への愛と尊信とをかち得る一手段としたのである。
わが日本は、さういふ形で国民の自負心を煽る必要は、さうさうないであらう。しかしながら、一国民の、他国民に向つて「これを見よ」と云ひ得る真の人間的能力の表現が、相手の如何ともなし能はざる、また、競ふにも競へぬ国体の精華だけでは、こちらもなんとなく相手が気の毒になるばかりである。「さあ来い」と云へるやうな、それも、遠い過去の遺産だけでなく、現在のわれわれの力で作りあげ、築きあげた各種の文化の殿堂で、わが大都市のいくつかを飾りたいものである。
後進国とは云つても、東亜の盟邦は、いづれもその文化感覚に於てはわれわれに劣らぬものをもつてゐる人々の指導によつて、新時代の国家建設を企図してゐるのである。現代日本の知的最高水準は、欧米のそれに匹敵するものさへあるのに、たゞ、それを具体的に、国民の中枢生活の中に、即ち都市文化の上に、表示する設備に於てのみ、欧米の植民地にも劣る観があるのは、どうしたわけであらう。わが日本は、それらの国々の民衆を直接に指導することはできぬ。たゞなし得ねばならぬのは、その指導者らを指導することである。果して彼等はわれに学ばうとするであらうか?
近代美術館もなく、知識人のための劇場もなく、市民の挙つて参加する祭典もないのは、これは、今すぐにどうしやうもない。民間の科学者や芸術家が、国家からも都市からもなんら「記念」されてゐないのもしかたがない。せめて、社会救済のための、社会教育のための、理想的な施設案を政府並に都市当局に於て、速かに樹てゝもらひたい。これが実行はやはり二十年計画で差支へないのである。私は、新体制国家の少くとも国防完備と同時に、この方面への邁進を熱望するものである。
五
都市生活が、民衆娯楽の営利化といふ面を通じてゞも、一般に享楽的に傾くことは否定できない事実である。しかし、これは、人間自然の要求がそこでは満たされ、またそれがある程度誘発されるといふだけであつて、都会自身のもつ不健全性ではないのである。
不健全なのは、寧ろ、かゝる娯楽機関をあげてこれを営利の具となさしめる為政者の怠慢と、文化意識の欠如である。
わが国では、まだ、官営或は公営娯楽施設などゝいふ言葉を聞いたゞけで、民衆は尻ごみをしさうな気がするけれども、これはもはや、放任しておけない問題である。
尤も、既に早くから、文部省あたりで国民娯楽の研究的調査が進められてゐるとは聞いてゐるが、そして、紙芝居の如きものには、相当の干渉が加へられたといふことも知つてゐるが、国家ひとたび動いて紙芝居を取締る図のなんと本末を誤れるやである。簡単にいふことを聴くものから槍玉にあげるのは、自信と勇気のない証拠である。
今日まで、国民の指導者をもつて任じてゐた人々は、多く芸術と娯楽の区別を知らず、また、娯楽とスポーツ、或は教育とを屡々混同してゐた。
一国の芸術的生産が、現代日本に於ては、殆ど大都市中心に行はれてゐる関係と、娯楽機関の施設が都市、殊にその中央部に蝟集してゐる状態とは、甚だよく似てゐる。
農山村の青年男女が都会生活に憧れる理由の一つは、「いゝ芝居や映画が見られるから」といふのだといふ事実が発表されてゐた。
さうかと思ふと、大都市の郊外居住者は、殊に家庭を守つてゐる主婦や、その監督下にでなければ街へ出られない年少者は、地方の小都市の方がまだましなほど、娯楽施設との絶縁を宣告されてゐるのである。
この不均衡を国民生活の豊富化のために、早くなんとかせねばならぬ。それにはまづ、都市の娯楽のあるものを、農山村に巡回せしめ、大都市の郊外地域をも含めて定期的に移動する、一種の高級娯楽機関の組織を考へる必要があるだらう。
娯楽的要素は、芸術の中にもあり、また、娯楽を芸術的に成り立たせることも可能ではあるが、娯楽そのものゝ本質は、人間が最も自然な姿に於て歓喜し、興奮し、心身の苦痛なしにこれに没頭し得る「遊び」でなければならない。娯楽にはまた、知的なものと感覚的なものとがあるが、その何れを高しとするやうな性質のものではない。娯楽の文化的意義は、決してさういふ見方にあるのではなく、寧ろ、その純粋性と品位にあるのである。
民衆の娯楽は、それゆゑ民衆自身の手になつたもの、民衆の素朴な精神を精神としたものが、一番高い価値をもつ。民衆の欲求は元来健康なものだと私は信じてゐる。これを不健康なものにするのは、民衆を食ひものにする手合の陰謀と術策である。営利業者と独善的な民衆指導者の猛省を促したい。
そこで、都市を中心とする娯楽の徹底的改善は、先づ、都市居住者をして、共同の娯楽を楽しむ時間と余裕とを得せしめることからはじめなければならぬ。
共同の娯楽とは、小にしては家庭的娯楽、これを押しひろめれば、町内隣人と倶にする娯楽、更に進んで、市民挙つてこれに参加し得るていの祝典的催しなどである。この種の共同の娯楽の衰微は、現代日本の全般的徴候であつて、殊にそれが都市生活者の孤独の心理となり、「遊び」は暗黒の中に追ひ求められるのである。
六
都市生活の明朗化のために、私は、以上のやうな娯楽の観念の徹底的反省を要求するが、更に、問題になるのは、市民の雑居的性格である。
第一に、有閑無為の階級もあるにはあるが、勤労者の悉くは、あまりに忙しすぎる。従つて、隣人同士が口を利く機会さへないのである。主婦同士は、近頃、隣組制度のお蔭で、ぼつぼつ近づきになりつゝあるやうだが、男同士は道で遇つても顔を覚えてゐないくらゐである。忙しすぎるといふのは、よく働くといふのとはやゝ違ふと思ふ。お互に自分のことを考へてみればわかる。役所や会社の仕事はだらだらしてゐて、そのくせからだが空かないやうな仕組みになつてゐるし、義理の交際がこれまた勤務時間の延長を強ひるやうなものだし、住居が不便なところだと、帰る前にビールを一杯ひつかけたいし、といふやうなことで、家に帰るともう身心ともにくたくたである。
ラジオでは盛んに岡本さんの「隣組の歌」を合唱してゐるけれども、なんだか、そのへんのサラリーマンは、茶の間の畳の上に寝そべつて、「うちは女房のゐるところ、隣はあつても用がない」などゝあの節に合せて唄つてゐるやうな気がするのである。
これでは駄目だ。
概して都会の知識層は、かくの如く、隣人に冷かであり、また冷かならざるを得ぬ境遇におかれてゐるのである。
私はしかし、それが彼等勤人階級の特性であるとは思はぬ。なかには厭人的傾向をもつてゐるものも少くないが、それとても真に隣人と悦びを共にすることを希つてゐないわけでもない。たゞ、道が通じてゐないだけであることが、だんだん近頃わかりかけて来たのである。
だが、こゝに最も機微な関係が存在する。それは、同一町内に居住する異種階級層の相互の親睦が、いかなる契機によつて、結ばれ得るかといふ問題である。これらの階級層を大体、金利生活者、所謂勤人、手工業者乃至小売商人、筋肉労働者の四つに分けることができると思ふが、それらは、生活程度の差、生活様式の独自さ、職業的偏見、若干の利害対立、教養の相違、等々によつて自然、交渉の疎隔を来すのみならず、時には必要な協同行為をすら避ける傾向を生じてゐるのである。
この現象が、都会を個人個人の生活の場とするものから多分に隣人互助の精神を奪ひ、これを努めて郷土的なものとする工夫を無益なりと感ぜしめるのである。
都市文化の跛行性がそこから生れる。町内の政治は必然的に移住者たる勤人階級の参加を拒み、局地的な施設は主として金利生活者の選択に委ねられ、祝祭の行事は最も文化的教養の低い階級によつて多くはリードされつゝあるのである。
例へば町内に神社を建てるとする。その境内を装飾し、これを小公園とする案は先づ通つた。ところで、この相談を町内に住む建築家や造園技師にもちかけたといふ話が今まであつたらうか。
また、例へば、出征兵士の送迎をするのに、町内の人々はそれぞれ集つて趣向を凝らすが、その儀式的な形態について、それがほんとに厳粛で荘重なものであるかどうかを、いつたい誰が批判するのだらう。町の祭典の装飾について、その音楽について、行進について、余興について、嘗て一度でも、美術家や音楽家や演劇関係者が、町民の資格をもつてその企画に口を出したことがあるだらうか。私は寡聞にしてそれを知らないのであるが、どこの祭典を見ても、さういふことが行はれた形跡すらないと断言し得る。これでいゝのであらうか?
七
かういふ問題をひろへばきりがないけれども、要するに都市文化の危機は、都市そのものに対する為政者の認識と、都市住民の生活意欲の、混乱、誤謬にあると私は思ふ。云ひ換へれば、こゝにも確乎たる理想がないのである。たまたま理想を懐くものがあつても、それを追求する情熱と、これを支持する集団の力がないのである。
都市居住者の時局への積極的関心が足りないやうに云はれてゐるのは、必ずしも、彼等が一人一人国民としての自覚が足りないためではなく、主として都市そのものゝ無目標的存在に知らず識らず生活を托してゐるところに原因があるのだと思ふ。
都市生活者の共通の目標を先づ明らかにする必要がある。市会にはもつと文化的な空気を注入すべし。町会なるものゝ機能をできるだけ活溌にすべし。市民としての訓練がやがて国民として役立つといふ信念を高く掲げるべし。
都市の粛清工作は警察の手にのみ委すべきではない。殊に風紀上の些末な醜悪面を洗ひ立てたり、追ひまくつたりすることは、労して効なきものと私は思ふ。複雑微妙な都市生活の裏面では、人間が社会から離脱して、羞恥なき行為も行はれるであらう。さういふものがひよつこり街頭の明るみに姿を現はしても、そんなに驚くことはない。かういふものゝ善良な市民の上に及ぼす影響力はそれこそ知れたものである。
それよりも、やはり私は、待合とか遊廓とかいふものを一掃したい。特に、それらのものゝ在り方を現在のまゝ続けさせるといふことは、日本の都市の性格をいつまでも封建的なものから脱せしめないことになる。悪所通ひを風流とし、社交の具とするある種の観念を、われわれの頭から、即刻排除しなければならぬ。これは道徳上の問題ではなくて、まつたく趣味上の問題なのである。しかも、それがどんなに悪趣味であるかといふことすら、われわれ自身の意識の上では感じられなくなつてゐるのである。
そこで、お互の社交の形式について、考へなければならぬ問題が提出される。
都会人、特に男性間の交際は、多くは家庭外に於て行はれるが、かゝる要求に応ずる施設が、即ち単純なクラブを除けば、すべて女性のサーヴィスを附きものとする飲食店である。
多くの主婦のうちには、それが結局面倒でなくてよいとするものもあるやうである。主人も亦細君を労るつもりで、よそへ人をよぶといふ場合もあるだらう。ものゝ因果関係はなかなか断定を下しかねることがあつて、この風習は、男が求めて作つたか、女の仕向け方に
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