しいこと、嘘を云はぬこと、「矜り」をもつてゐること、清潔を愛し、勇気を尊ぶこと、外国人の野心を見抜いて油断をせぬこと、学問に対する尊敬と好奇心を十分に抱いてゐること、美しいものに敏感であることなどを、「文明人」たる理由として挙げてゐるのです。この見方はまことに西洋人らしいと思はれますが、私がもう少し補足をすれば、そしてもつと彼が直観的に感じたであらう日本人の立派さは、きつと、異国人たる彼自身に対するあらゆる階級の日本人の物腰態度が、総じて物柔かなうちにも凜然としたところがあり、人間としての品格がおのづから備はつてゐたからではないかと思ひます。
 一国の文化をはかる尺度として、その国民の物腰態度ぐらゐ正確で端的なものはないのです。そして、その物腰態度は、人が考へてゐる以上に、それは「家」そのものの全貌であり、両親をはじめ、子供の「躾け」に当つた人々の意志と好みとが反映するものであります。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 日本文化の綜合性を理解する簡単な一例として、私は、「嗜み」といふことを考へたいのです。これについてはやはり後に一章を設けて説明するつもりですが、この「嗜み」といふことは、日本人錬成の理想を示したもので、常に知情意の円満な調和的発達を目指し、「嗜み」が深いと云へば、それはもう、道徳的に善であり、知的に真であり、また情操的に美であるといふ条件を完全に備へてゐることを指します。
 その面白いひとつの場合をあげれば、ある人物が物を云ふ時、わざわざ妙な声を出す。すると「嗜み」のない声と云つてこれを嗤ひます。どういふわけかといふと、その声は、いかにも場所柄にふさはしくない、馬鹿げた、頓狂な、ふざけた声である。その人物の徳性も疑はれ、聡明でないことがわかり、かつ、耳に快く響かないといふ三拍子揃つた欠点を暴露したことになるからであります。
「嗜み」は元来、訓練によつて身につけるものでありますから、物の価値判断はその勘によつて綜合的に働き、それがつまり、「文化」の健全性を誤りなく識別する基準となるのです。

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

 更に日本文化の特色として、包容性をもつてゐるといふこと、同化力が強いといふこと、しかも、その同化は必ずしもものを一色に塗りあげることをせず、その異質的な形態をそのまゝ存続させつゝ、並行的に処を得させるといふ一視同仁の同化力であることです。
 外国文化の摂取は、常にこの包容性と同化力によつて、日本の国土を豊かに彩ることに成功しました。
 現在はその形が最も極端になつてゐて、風俗から云つても多少手に余るといふところが見え、わが国文化の将来を危惧する声も聞えますが、これはたしかに、欧米文物の軽率な模倣によるのであつて、外見はまことに醜態を極めてゐるわりに、私の観察では、日本人の生活自体は、その影響下にありながら、それほど動揺してゐないと信じ得る根拠があります。
 第一は、西洋風の生活が少しも身についてゐないことです。これが実は伝統的な生活技術の喪失とともに、風俗混乱と悪趣味横行の大きな原因ですが、それはそれとして反省の機会がありませう。私は、むしろ、この現象のなかから、「西洋風なもの」の怪しげな部分の自然淘汰と、そのうちの「いゝもの」を消化しきつて、ほんたうに身につける努力とが生れて来ることを期待してゐるのです。
 特に、「洋服」と「洋館」とは、今後、集団生活の発展とともに、益々これを利用せざるを得まいと思はれますが、従来、この点に関するわれわれの研究は甚だ杜撰であります。従つてその利用に当つて払はるべき当然の注意、それがわれわれの生活の能率と健康と品位とに及ぼす影響についての配慮が著しく欠けてゐました。試みに、初めて洋服を着る男なり女なりが、誰にその正しい着方を習ふかといふと、それは誰も教へるものがないといふのがまづ実情であります。見やう見真似で、いゝ加減な着方をする。それをまた嗤ふものもない。身につく道理がありません。和服の着方が少し可笑しければきつとさう云つて注意するものがある筈です。誰よりも母親がまづ手を取つて教へるでせう。それは知識よりも寧ろ習慣によつてであります。さういふ勘が働くやうでなければ、生活の機能といふものは完全にその用を果しません。日本の「洋式」は、まだそこまでわれわれのものとなつてゐないのです。
 先達てもある学校で、式の最中、多数の生徒が講堂で脳貧血を起して倒れました。原因は、寒いからと云つて窓を閉めきつてあつたのです。今迄こんなことはなかつたのだがといふ校長の不審さうな顔へ、一人の教師が興味のある報告をもたらしました。それは、今迄は、講堂を使ふ時には、きまつて一人の外人教師が、自分で廻転窓を開けて廻つたものださうです。その外人教師が最近戦争の勃発と共に帰国した、その直後に起つた事件がこれだといふことがそこでやつとわかりました。純洋館の生活にまだ慣れてゐない日本人の、自分でそれほどとは思つてゐない不覚が、結局この始末なのであります。

 ところで、一方、かういふこともあるのです。これも近頃の話ですが、支那から数人の名士を招いてある団体が交歓をした、その節、一夕、東京の有名な支那料理店に席を設けて御馳走を出したところが、客の支那名士は、微笑をたゝへて、主人側の日本人に向ひ、「大変おいしい日本料理ですね」と云ひました。支那料理のつもりだらうが、一向支那料理らしくない。風味がまるで違つたものだといふ意味を、婉曲に述べたものと察せられます。
 これ果して、主人側の予期したところであるかどうかは知りませんが、かういふ現象も往々にして起り得るわけで、それは、日本人の同化力の例外的な現れではないかと思はれます。これは、取りやうによつては、それでいゝのかも知れませんが、私の日本観からすれば、むしろ、「似而非《にてひ》」なるものの存在を極度に排斥するわれわれの潔癖が、さういふものを許さないのではないかと思ふのです。
 立場をかへて、西洋化した刺身や、支那臭を帯びた味噌汁などといふものを、これが日本料理だと云つて出されたら、恐らく箸を取る気にもなれますまい。風味はともかくとして、そこには、なにか、冒涜といふやうな言葉に通じる倫理的な不純さがのぞいてゐる気がするからです。
 努めて及ばざるは致し方がありません。しかし、及ばざることを知ることが必要であり、知つてゐる以上、相手を弁へたらよからうと思ふのです。
 同化といふことは、これでなかなかむづかしいのでありまして、徒らに外国のものを日本色で塗るといふやうなことではありません。
 支那料理は、支那料理を好むもの、支那料理の味がわかるものが食べればよいのです。或はまた、日本料理のなかへ支那料理風のものを採入れて、一品異国色を調和を破らない程度に混ぜることも面白いでせう。しかし、純正な支那料理を、日本人のあまり舌の利かない口にも合ふやうに改悪して、これが支那料理だと誇称することは、およそ、日本人らしくない無神経なやり方ではありますまいか。これを「はしたない」といふ言葉で現します。「嗜み」を欠くといふ意味であります。
 西洋料理についても同断です。如何はしい洋食の氾濫は、まつたく無きに如かぬと私は常に感じてゐるのですが、これはたゞ、洋食の「まがひ」だといふ不体裁に加へて、日本人の味覚を著しく台なしにする曲者です。こんなものを平気で食つてゐると、ちやんとした日本料理の味がわからなくなるのは請合ひです。洋食にも料理屋風の調理と、家庭風の調理とがあります。公式の献立と略式のそれとがあります。安く食べさせるためには、家庭風の料理を、略式の献立で出せばいゝのです。さういふことをしてゐる洋食屋はどこにもありません。アメリカ風のランチはありますが、こんな寒々とした事務的な食事は、日本人の胃の腑を満足させはしません。さうかと思ふと、きまつた安い値段の定食に、馬鹿々々しい儀式用の献立を摸した皿数をつける。従つてどの皿も満足に食へる皿はないのです。かういふ西洋式の採入れ方は、日本人の恥辱であり、大きな損失です。滑稽で、殺風景で、がさつを極めた現代風俗の一例がこゝにもあるのであります。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 およそ、風俗を乱し、生活を歪め、国民の品位を傷つけ、惹いてはその実力を低下させる最大の原因は、何事によらず、「好い加減なところで間に合せておく」といふ、いはゞ、最善を尽してなほ及ばざるを慣れる精神の欠如だと思ひます。この「間に合せ」主義は、事急を要する問題が次々に起つて来て、それを処理するのに絶えず忙殺されてゐた結果で、眼前の事態にのみ気を取られる余裕のなさを語るものでありますが、それにしても、これが世間普通のことになつて、誰も怪しむものがないといふ風潮は、決してさういふ口実によつて救はれることはできません。
「行き当りばつたり」は概ね「やつつけ仕事」を生み、臨時の処置は、常にいはゆる「バラック」式なものを作りあげ、その場を切りぬけさへすれば、あとはどうにかなるといふ姑息な気持を増長させます。そして、「通用する」といふことは、「まあなんとか間に合ふ」ことであり、「間に合ひ」さへすれば、その物事の真の価値は、専ら第二として、あまり重要とは考へないといふ、極めて安易な態度を自他ともに是認することになるのであります。
 国民全体のかういふ生活態度は、国政の運用と相俟つて、日本の現代文化に、ひとつの憂ふべき空隙を生ぜしめたと、私は信じます。
 いろいろの事情で、十分なことはできないといふ場合、われわれはすぐに「我慢をする」といふのですが、その「我慢」をするにも、我慢のしかたがあります。先づ第一に、「十分なこと」とは、何を指すのかが問題であります。云ふまでもなく、これは正しい理想を指すのでなければなりません。
 それなら、その理想を実現するために、何が足りないかを考へる時に、われわれは、往々、「物」乃至「金」の不足を第一に挙げはしないでせうか。その次には、「時間」の不足でありませう。そこで、その不足を、なんで補ふかといふ、最も肝腎なところへ来ると、もはや、「理想」からはほど遠い、現実の低い要求のみを頭におき、「間に合ふ程度で我慢する」といふことになります。それはどういふことかと云へば、物と金と時間との不足を、最大限に補ふ工夫と努力、即ち、肉体と精神とによる人間能力の最高度の発揮といふことは、あまり問題にしないのであります。「どうせ物がない」、「どうせ金がない」、「どうせ時間がない」といふやうな、諦めとも捨鉢とも云へる気分が先に立つて、飽くまで最善を尽す張合を失ふといふ傾向がみられます。こゝが非常に危険なところであります。
 なぜなら、この傾向から、二つの悲しむべき現象が生じます。
 一つは、「なんでもかまはぬ。損をしさへしなければいゝ」といふ責任のがれ、一つは、「出来るだけ苦労をしないで、うまい汁を吸はう」といふ射倖心理であります。
 さて、そこまではいかぬとしても、この傾向は、多くの場合、一種の現実主義と結びついて、文化感覚の麻痺を促し、当面の問題に対して功利的な判断しか加へることができず、その点で性急に安全な効果をねらふあまり、最も「卑俗な」手段を最善の手段とみなす鼻息の荒い「実行家」を輩出せしめます。
 これが抑も、一世を挙げて、風俗の悪化、文化の低調を招く著しい原因でなくてなんでありませう。
 明治以来の「間に合せ」主義が、現在の国民生活をある面に於て甚だしく脆弱なものとしてゐる事実を考へたならば、この時局下に於て、物資の欠乏と労力の不足とを忍び、更にこれをなんらかの方法によつて補ふために、われわれは、おなじく「間に合せる」覚悟をし、その実践を励むにしても、決して「好い加減なところで我慢をし」てはなりません。飽くまでも、国民としての矜りを堅持し、戦時生活を見事に強化する理想を掲げ、「あるもので間に合せる」ことに満足せず、進んでわれわれの美風を日常衣食の間に生かし、醇乎たる「無駄なき余裕ある生活」の伝統にかへ
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング