日本文化の特質
――力としての文化 第二話
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御親《みおや》と
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
「文化」は国土と歴史との所産であります。言ひ換へれば、民族の血と運命とが創りあげる生存のすがたであります。民族とはこゝでは狭い意味の人種的差別を云々せず、精神的に結合した政治的統一体を指すこととし、やがては、国民の名に於て全く等質の文化圏に入るべき複合民族をも意味するものと考へたいのです。
ところで、日本の「文化」は、今日まで、いはゆる「大和民族」たるわれわれの祖先が、允文允武にまします歴代の天皇を御親《みおや》とし奉り、世界を「家」となす遠大な理想をかゝげ、赤子たるの光栄と本分とを忠誠の臣節に籠めて、ひたすら国運の発展と「美《うま》しき」国風《くにぶり》の充実に尽して来た、その結実なのであります。
時に暗雲が朝威を覆ひ、民心転た悄然たる時もありましたが、乱れゝば光り現れ、犯されゝば力湧き起る神の国の、昔も今も、皇運こそ天地とともに窮りなきを、われら固く信じてゐるのであります。
なによりも、日本の文化は、この揺ぎなき国体と歴聖相継がせ給ふ御遺訓の精神を中軸とし、大和民族独特の性情に根ざす天衣無縫の着想を、営々三千年に亘つて積み重ね、磨きあげた創作なのであります。
大陸文化の影響と云ひ、模倣と云ひ、その影響は消化であり、模倣は吸収であつた。文化が仮りに侵略の手を伸ばすものであるとしても、未だわが国は、現代に於ける一部表面的な現象を除いては、嘗て外来文化の侵略に委せたことはありません。
文化は高きより低きに流れるのが常とは云へ、文化の高さなるものは、これまでいろいろの標準によつて計られたのです。
一例を挙げれば、「技術文化」といふ言葉もあるとほり、技術、特に物を組織立て、合理化し、分析分化する技術の精粗、巧拙を以て文化の優劣を決しようとする見方があります。
法律の制定、交通網の整備、教育施設の充実、学問の系統立て、国防力の統一、生産手段の合理化などといふ方面にかけては、たしかに日本は遅れてゐたといふほかありません。しかし、一方から云へば、久しい間鎖国政策によつて、政治的にも、経済的にも、その必要がなかつたからとも云へるのでありまして、ひと度、それが国家の自衛及び発展上欠くべからざる要件だといふことになれば、たちまち、僅か数十年間に、それらの点にかけて優越を誇つてゐた国々と殆ど肩を並べるまでになつたのみならず、ある点では、遥かにこれを凌駕したのであります。
それはいつたいどういふわけかと云へば、いはゆる「文化」の標準を、もつと別なところにおいて、即ち、複雑な組織を作る代りになるべく単純な道筋で用を足し、合理化に努めるよりも寧ろ道義化に意を用ひ、分析分化に浮身を窶さずして綜合と直観の力によつて事を弁ずるといふ流儀が、測らずも、他の流儀の会得と利用を容易ならしめる底力となつたのであります。
してみれば、一方の流儀からみて低いと思はれた「文化」は、その実、思ひがけない別の流儀の、しかも、それはそれで相当に高い「文化」であつたといふことが、解るものには解らなければならないのです。
わが古典文学にみる生活感情の豊かさと表現力の逞しさ、西洋ではまだやつと素朴な手法の物語が生れかゝつた時分、日本の王朝時代には既に、「源氏物語」のやうな幽玄きはまる小説文学が創り出されてゐるくらゐです。
韻文としての和歌や俳句の妙境は比較を絶してゐるとは云へ、美術に於ける絵画、彫刻、建築、工芸の粋をとつてみれば、日本人の精神の鋭さ、深さを示す好適例は無数にあるのであります。
学問の領域に於ても、最近の研究に従へば、哲学の如き抽象理論の追求は別として、自然科学、特に数学の発達は、明治以前に於て著しいものがあるとのことです。
本草学としての薬草の採集、観察、実験の価値などは、将来、世界医学の根柢を覆すものと期待する向もあります。
この領域のことは、私は受売りに過ぎませんから、確信をもつて事実を述べることはできませんが、少くとも、古来、学者と云はれる人物の日本的特性を考へてみると、甚だ興味あることは、彼等が常に経世済民の志を掲げ、「学」と「徳」と「芸」とを一体として身につけ、更に「文」を業としつゝも、「武」の道をもつて心の備へとしてゐたことであります。即ち「士人」をもつて常に自ら任じてゐたのです。
芸術の分野にもう一度帰れば、日本人の「美」の理想は、単なる感覚的なものではなく、そこには必ず、品とか、気韻とか、風格とかいふ、つまり倫理的な高さを求めました。それと同時に、絶えず、自然の形式的模倣をはなれて、自然そのものの魂に直入し、客観の微をすてゝ象徴の裸形をつかむ時、はじめてそれは至芸と呼ばれるのです。いはゞ宗教味を帯びたとも云へるほどの厳粛さがそこにあります。
しかし、また一方、極めて卑近な庶民的芸術の宝玉が、さりげない顔で、市井の生活に織込まれてゐたといふことも、日本独得の現象であります。浮世絵の如きがその一例です。多くの工芸品がさうです。今日、「下手《げて》もの」と称せられる、嘗ては誰の家にでも転がつてゐた雑用器物の美的価値は、われわれの祖先が、如何に無意識に美しきものを愛し、如何に美しきものを平然と作ることに秀でてゐたかを証するものであります。
それはとにかくとして、日本文化の最も重要な特質は、前にも触れたやうに、民族固有の直観力と綜合性にあるのですが、これは単に、芸術、学問の上ばかりでなく、生活のいろいろな面にそれが現れてゐて、時代々々の色調を帯びながら、常に一貫した生活様式の独自な発展を促したのであります。
衣食住のいづれをとつてみても、まつたく世界に類のない形態と、その形態を裏づける観念とがあつて、われわれは、そのなかで成長し、それに応ずる習性を身につけ、それによつて心性の陶冶を受けつゝあるのであります。
いはゆる洋服、洋食、洋館のこれほど普及した今日に於てさへ、一方、和服は決して廃せられず、和食はむしろ常食であり、畳障子の家屋は住みよきものとされてゐます。
これはたゞ惰性がさうさせるばかりではありません。習慣と云つても、それは単なる過去への執著として軽視せらるべきものではないのです。
現代の要求からすれば、そこには幾多の不合理や不便があるでせう。しかし、それにも拘らず、それを知りつゝ、なほかつ、われわれは日本人なるが故に、純日本的な衣食住の様式に心惹かれるのであります。なぜなら、その様式には、日本人の直観力による生活理想の追求があり、同時に、その綜合性に基くあらゆる生活機能の統一融合が見られるからであります。
例へば、紋服の端然たる、浴衣がけのざつくばらんなる、子供の肩あげのあどけなき、白足袋の凜としたる、などを、洋服の場合にはどうにもしやうがないといふのが、日本人の底を割つた感情です。
また、住宅について云つてみても、床の間ひとつで保たれる中心の重みと安定、茶の間の代りに食堂があつても、それはあまりに「食ふ」だけのための部屋でありすぎる淋しさなど、日本人でなければわからぬ消息であります。
食事に至つては、ますますこの感が深い。第一に、食事といふものに対する日本人本来の考へ方が、西洋人のそれとは非常に違ふのです。キリスト教でも、食卓での神への祈りといふものはありますが、日本人には、日本人固有の食生活精神といふものがあつて、食前に「戴きます」と云ひ、食後に「御馳走さま」と云ふ挨拶は、決して、今行はれてゐるやうに、子供が親に、客が主人に向つてのみするのではなく、そこにはもつとひろい、この「食物」をわれに与へるもろもろの力、もろもろの恵みに対する深い感謝が籠められてゐる筈であります。
それにつれて、「食器」に対する考へ方も、まつたくほかの国々にはみられない厳粛で温かみのあふれたものです。茶碗と箸とは家族の一人一人がそれをめいめいの持ち物として、恰も身体の一部のやうに扱ふことも他に例がありません。そして食器の一つ一つは、形と云ひ、色彩と云ひ、それぞれの用途と、それを用ひる人の人柄に応じて変化を極め、やゝ改まつた食事の膳立をみれば、献立の配合の妙と共に、それが如何に綜合の美に富んだ、日本の生活の縮図であるかといふことがわかるのであります。
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西洋の生活様式にも、それはそれとしての洗煉された「味ひ」はありますし、殊に、近代文明の発達がもたらした一種快適な雰囲気といふやうなものはなくはありませんけれども、それは主として、物質本位の、個人々々の享楽と安逸を目的とした人工的、技術的な部分の浮きあがつたものです。もちろん、生活の技術といふことは、特に社会的訓練を経た個人生活の規律と、集団を対象とした生産と消費との関係の調整などは、これを彼に学ぶ必要はありませう。
しかし、少くとも家族を単位とした「家」の生活様式は、「家」の伝統がそこに生かされてゐる限り、もはやこれ以上のことは望み得られぬまでに整備完成されたものであり、今後時代の推移と共に、表面的な改革や刷新が行はれようとも根本の基準は聊かも動かしてならぬものと私は信じます。
それほどに、日本の「家」と「生活」とは切離せぬものでありますが、その「家」はまた、日本文化の一つの母胎であり、原動力でありまして、わが家族制度の最も健全な精神と形式は、今日必ずしも一般に受けつがれてゐるとは云へませんが、これを引戻して本来の面目に帰することこそ、現代の日本人の急務であり、新しい国民文化建設の基礎工作であります。
家督、家名、家風、家憲などといふ言葉に現れた、日本の「家」の性格は、一国一家、君民一体の大精神をその血液のなかに宿してゐて、はじめて光輝ある伝統となるのであります。
「家」の祭りは国の祭りに通じ、家の名誉は国の名誉につながり、家の風格は国風《くにぶり》の流れに添ひ、家の掟は、臣民の道にもとづくものでなければなりません。
かうして、日本の「家族」は、家長を中心とする国土の一単位となり、子孫の育成を本務とする国民道場の一段階となるのです。
そこでは、儀式と起居と団欒との多彩な生活環境のうちで、われわれの、真に「生きる」道と目標とが教へられ、両親の膝の下で、懇《ねんご》ろに、また厳しく、「躾《しつ》け」が施されます。
この家庭における「躾け」については、後の章で詳しく述べるつもりですが、そもそもこれは国民錬成の基礎ともなるべきもので、一家の盛衰はもとより、一国の消長にすら関はる重大問題であります。そして、「躾け」の見事な効果は、単に個人と家の風格を高めるばかりでなく、その国のあまたの社会現象、特に時代の風俗に気品と底力を与へ、文化水準の高さを如実に示すことになるのであります。
嘗て、スエーデンの植物学者でツンベルグといふなかなか眼の利いた人物が、日本に来たことがあります。それは今から三百年前の昔でありますが、当時、西洋人と云へば、東洋の一孤島日本について何ほどの知識も持つてゐません。ツンベルグも、恐らくこゝでは、異国的な風物に務して、一方学問上の研究資料を蒐め、一方、珍しい土産話でも仕入れようといふぐらゐの気持で、はるばる海を渡つて来たのであります。
ところが、長崎から江戸までの長い旅をしてみて、彼は沿道の景色に見とれる代りに、そこに住む人々の、予期に反して、「文明人」であることに驚嘆の声を放ちました。彼が云ふ「文明人」とは、もちろん、単に未開野蕃の徒に非ずといふ意味よりはもつと強い、「立派な文化をもつた国民」といふつもりであることは、彼の道中の日記を読めばわかります。
こんなことは、ツンベルグに教へられなくてもわれわれは承知してゐますが、その頃の西洋人で、さういふ観察を下したものは稀であります。主として、日本の民衆が礼儀正
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