ふことを案外なんとも思はないほど不気味なものはありません。ほかからみれば不気味に違ひないけれども、日本人自身には、それが当り前なのです。
しかし、これは、日本人の「生」といふものに対する考へ方と無関係ではありません。日本人は、「生きる」意味をどの程度重大に考へ、「生き方」について、どの程度真剣に思ひをひそめてゐるかといふと、この点はいろいろ問題があると思ひます。
立派に死ぬことは立派に生きることであるといふ真理は、日本人によつてのみ会得されたのでありますが、それは生命への執著を絶ち切る無上の啓示であることはわかります。
ところで、立派に生きる道は、立派な死以外にはないでせうか?
「ない」と答へることは容易です。事実、立派な死ぐらゐ、人生を意義あらしめるものはないからです。日本人はさういふ「死」を死ぬためにこそ「生き」てゐるのだといふ象徴的な言ひ方さへできるくらゐです。
私は、この場合、既に、「立派な死」といふ言葉のなかに、「立派な生」といふ意味をも含めたものとして考へたい。言ひ換へれば、「立派に生き」得るものでなければ、「立派な死に方」はできぬといふことです。
今日の日本人が
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