するにも、我慢のしかたがあります。先づ第一に、「十分なこと」とは、何を指すのかが問題であります。云ふまでもなく、これは正しい理想を指すのでなければなりません。
 それなら、その理想を実現するために、何が足りないかを考へる時に、われわれは、往々、「物」乃至「金」の不足を第一に挙げはしないでせうか。その次には、「時間」の不足でありませう。そこで、その不足を、なんで補ふかといふ、最も肝腎なところへ来ると、もはや、「理想」からはほど遠い、現実の低い要求のみを頭におき、「間に合ふ程度で我慢する」といふことになります。それはどういふことかと云へば、物と金と時間との不足を、最大限に補ふ工夫と努力、即ち、肉体と精神とによる人間能力の最高度の発揮といふことは、あまり問題にしないのであります。「どうせ物がない」、「どうせ金がない」、「どうせ時間がない」といふやうな、諦めとも捨鉢とも云へる気分が先に立つて、飽くまで最善を尽す張合を失ふといふ傾向がみられます。こゝが非常に危険なところであります。
 なぜなら、この傾向から、二つの悲しむべき現象が生じます。
 一つは、「なんでもかまはぬ。損をしさへしなければいゝ
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