くなつたのだと思ひます。
 親の躾けといふものに対して一番うるさく思つたのがわれわれの時代で、それからは親が我が子に対しても、だんだん何も云はなくなつたといふことが考へられます。
 躾けといふことは非常に窮屈な、謂はば行儀作法をやかましくいふことだといふ風に思はれて来たので、躾けといふものに対して戦々兢々としてしまつて、それが青年の伸びる力を抑へつけ、それに堪へきれないといふことが青年を無軌道にしてしまつたのです。
 子供には子供、青年には青年に適当だと思はれるものを、時代に応じて与へて行つたら理想的なのです。例へばわれわれの家庭の実状から云つて、若し仮りに貴族階級のやうな躾けをしたとすれば、子供はどうなるでせうか。必ずしも立派な「たしなみ」をもつた子供にはならないのです。勤労階級には勤労階級の「たしなみ」があり、また貴族階級には貴族階級の「たしなみ」があります。これを履きちがへてゐるものですから、若いサラリーマンの細君が、狭い台所で自分で洗濯をする生活のなかに、本当の「たしなみ」があることを忘れて、どうかすると「遊ばせ」言葉を使つたり、また逆に、どうせ自分はこんな生活なんだといふやう
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