であります。此新劇運動も今日まで色々のスローガンを以て起つたものが相踵いで失敗して、全く文字通り苦難の途を辿つて居ります。さうして今日迄の新劇運動を一通り知るには、坪内逍遥と小山内薫の此二人をよく知らなければ解らないのであります。大体小山内氏は元は英吉利文学を専攻した人でありますけれども、主として北欧の芝居、独逸、露西亜の芝居を日本に紹介し、例の仏蘭西の十九世紀末の新劇運動、自由劇場運動に倣つて日本にも自由劇場と云ふ劇壇を拵へました。之は今も生きて居りますが、市川左団次と云ふ俳優と一緒に拵へました。この坪内、小山内両先輩の仕事は色々な障碍で今日跡を残して居りませんけれども、新らしい芝居を作り出さう、現代の日本人の生活が今の舞台の上で見せられるやうな芝居を作り出したいと云ふ要求が、若いゼネレーシヨンの間に燃え上つて居るのであります。今日さう云ふ点に皆さんが気を付けて見て下されば、能狂言或は歌舞伎の世界と違つた一つの演劇世界が日本の現在にあると云ふ事が解り、又さう云ふ世界こそ日本の若いゼネレーシヨンが諸君に見て戴くことを望んでゐる世界だと思ひます。又さう云ふ世界に於てこそ諸君が吾々の仕事に協力して頂けるものだと思ひます。現在この新劇運動を標榜する劇団としては三つの劇団があります。先づ創立の年代順から申しますと、新築地劇団、新協劇団、もう一つ之は私が関係して居りますが、文学座であります。此新築地劇団、新協劇団は小山内薫氏時代に出来た築地小劇場と云ふ小劇場に拠つて仕事をして居ります。茲で特に皆さんの御注意を喚起したいと思ふのは、此新築地劇団及び新協劇団は曾て日本に左翼的な芸術運動が盛でありました時代に、演劇の部門でさう云ふ一つのイデオロギーを以て仕事をしてゐた連中が、今日さう云ふ思想運動が禁ぜられてゐる為に、演劇の上の仕事としては、さう云ふ思想的な傾向は全く持たない劇団でありますが、併し是等の劇団は一種の団体的訓練と云ふものに於て非常に優れて居ります。従つて此劇団の活動はさう云ふ一つの強味を通して全く活溌に一般の社会に働き掛けて行く力を持つて居ります。従つて其処で上演されるものも何等かの意味で思想的であり、社会的であり、同時に野心的であります。最近は新協劇団では島崎藤村の夜明け前と云ふ大作を上演して仲々立派な成績をあげました。又新築地劇団でも綴方教室と云ふ、之は小学校の一少女の書いた作文を原作として舞台に上演したもので之は非常に素朴で真に迫つた情景を舞台に写し出した為に可なり成功しました。それから文学座と云ふのは主として其の目的とする所は、日本の新らしい芝居を作り出す為にはどうしても一つの新らしい技術と云ふものを必要とする。歌舞伎の技術でも新派の技術でも新らしい芝居は出来ない。さうかと云つて西洋の芝居を其儘採入れて西洋の俳優がやる演伎を其儘日本人がやつても、之は又日本の新らしい芝居にはならんのですから、現在の日本人が現代の芝居の演劇技術と云ふものを作り出して始めて日本の新らしい演劇が出来るのだと云ふ主張の下に、主として只今では俳優の訓練と云ふことを目的として居ります。此処でやられる脚本は日本の若い作家で、西洋の新戯曲の影響を受け、しかも純粋の日本語。日本の言葉として新らしい戯曲の、スタイル、文体を獲得した作家のものを選んで文学座の上演目録、レパートリーにして居ります。之は東京で大体隔月位に公演して居ります。文学座の方は飛行会館の会場で短く短期間の公演をやります。此三つの劇団が所謂純粋の新劇運動をやつて居る劇団であります。此外独立した職業劇団と云ふものがあります。御承知の様に日本の演劇、芝居は今殆ど松竹と云ふ大資本の統轄下にあるのです。其の松竹と云ふ大資本の下で統轄されてゐると云ふことは非常に便利な点もあり不便な点もあります。さう云ふ所で働いてゐると云ふことを慊らなく想ふ職業俳優が独立して、自分達の主張に従つて仕事をすると云ふ独自な立場を持つた劇団がある。其内で今日先づ健全な歩みを続けて居るものが新国劇と前進座であります。此二つの劇団は一旦松竹の手を離れましたけれども、今日では十分興行成績を挙げて居りますので、松竹が更に之に臨時に劇場を貸して興行させる。殊に此前進座は最近劇団員が一つの新生活運動を始めた。詰り今迄の俳優の生活がよくないと云ふので、生活を変へる運動として共同生活をはじめ、一つの建物の中に皆が這入つて全く日本のさう云ふ種類の団体では見られない几帳面な生活をする。もう一つは演劇と云ふもの、経営の合理化を図る。之は何かの機会に前進座の研究所と云ふものを見学にお出でになると宜からうと思ひます。其他のものは雑劇と呼んでも宜いので、全く在つても無くてもいゝ様な芝居が無数にあります。之は一々申上げませぬ。それからもう一つは児童劇と云つて子供の芝居、或は学校劇と云ふものが最近非常に盛であります。此児童劇、学校劇と云ふものは、勿論興行的にやられて居るものではありませんけれども、日本の文化運動の一翼としてその存在は無視することは出来ませぬ。この為に各種の研究をして居る人があります。子供に見せる為めの芝居、それから子供が自分でやる芝居、此二つの面から研究する。其他猶ほ一番最初に申しました、日本の各地方で行はれて居る民族劇、各地方で昔から行はれて居る芝居に類するものを挙げますと云ふとまだ沢山ありますが、それも今日は申上げない事に致します。琉球、朝鮮、台湾の民族劇、アイヌにも所謂舞踊ではありますけれども、其の舞踊の中に多少の演劇的要素の加はつてゐるものがあります。之はもう特殊なものであります。
 先づ大体今日皆さんに申上げたい事は是で終つたのであります。只だ一言最後に申上げて置きたいことは日本の芝居と申しますと、一般に日本人自身が矢張り能狂言、歌舞伎を特に挙げ、それから外国の方も日本の芝居と云ふ場合に能狂言と歌舞伎と云ふ以外には無いと云ふ印象を先づ持たれます。之は一方から云ふとわれわれ日本人の罪でありますが、又同時に日本の新らしい芝居と云ふものがまだ歌舞伎や能狂言の両方に比べますと云ふと、其の色彩が全く薄れる位に未完成であることが原因です。併しさう云ふ未完成の中に寧ろ吾々の若い時代の苦悶があり、其の苦悶の世界は全体の若い苦悶に通じるものであると云ふ事を特に諸君に申上げたいのであります。
 大変纏まりのないお話でありましたけれども、問題自体が非常に難しいので私としては是で出来るだけの事をした積りであります。どうかお許しを願ひたう存じます。是で終ります。
[#地から2字上げ]正午閉会



底本:「岸田國士全集24」岩波書店
   1991(平成3)年3月8日発行
底本の親本:「昭和十三年・夏期日本文化講座講演集」国際学友会
   1939(昭和14)年6月30日発行
初出:「昭和十三年・夏期日本文化講座講演集」国際学友会
   1939(昭和14)年6月30日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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